ふいに懐かしい香りに包まれた。
「お。リラだ」
連れだって買い物に来ていた年下の友人につられて同じ方向を見ると、薄紫の小さな花が密集して咲いている木が目に入った。
「……リラ?」
「あ~、ライラックといった方がわかりやすいか」
……ああ、ライラックか。そう言われればわかる。
「この花が……へぇ。色としては知っていたが、あまり花には興味がないからな」
「ははっ。そんなモンだろ」
二人で民家の庭に植わったライラックの花をしばし眺める。
「リラは暗青色という意味する言葉が語源になっているそうだぞ。暗青色っていったら、ちょうどカノンの髪と同じだな」
今はまだ友人で、できればもう少し親しい関係……つまり、その……恋人になりたいと願う相手が俺の髪に触れた。
「暗青色というより淡い紫に見えるがな」
どきんと鼓動が跳ねる。
こんなちょっとしたことで動揺する自分を隠そうと努めて平静な口調で言った。
「リラは色んな色があるからな。白とかピンクとか青とか。でもカノンの言うように青いリラも暗い青ってより淡くて明るいかな」
髪から手を放して、想い人はもう一度、花を見上げた。
対して俺はもっと触れてくれていいのに、と彼の指先を未練たらしく見下げた。
「でも、5月30日の誕生花でもあるんだぞ? 名前の由来が髪色で誕生花だなんて、カノンのための花みたいだ」
微笑んで、先に歩き出す。
何故、俺の生まれた日を知っているんだろう?
そんなに俺に興味を抱いてくれていたのかと一瞬、誤解しかけたが、なんのことはない。
サガと同じ日なのだから知っていても不思議ではない。
カラクリに気づいたら、少し落胆したがそれでも俺の、カノンのための花だなんて言ってくれて嬉しかった。
いつもこうやって俺の欲しい言葉をくれる。
きっと誰も思いはしないであろう、些細なことからも俺につなげてくれる。
(高嶺の花……)
背中を追って少し足を速めながら、遠い昔を思い出す。
幼い頃、兄のフリをして時々、町へ降りた。
他人の家に植わっていた、紫色のキレイな花が欲しくてたまらなくなった。
普段は花になど目もくれなかったというのに、何故かこのときは猛烈に欲しいと願ったのだ。
きっとそれほど見事だったのだろう、当時も今のように。
枝を折ってくれようとあれこれ画策したが、塀が高すぎて上手くいかなかった。
名も知らぬその花を、とうとう手にすることはできなかった。
それがあの花だった。
振り返れば、そう、さっきの民家。
角にあったあの家だ。
木も俺も大きくなったというのに、家だけは当時と変わりなく。
子供の頃に届かなかった花は、今なら少し手を伸ばせばすぐだ。
むろん、花欲しさに手を伸ばすような馬鹿な真似をしようとは思わないが。
買い物を済ませて、帰りに同じ道を通るとまた自然と足が止まる。
「……カノン?」
俺の気配が遠のいたのに気づいた友人ミロが道を引き返す。
「どうした? ははっ。欲しいのか、その花?」
「いや、そういうわけではないのだが……」
そんなやりとりをしていたら、民家の住人であろう白髪の老女がホウキを手に現れた。
俺たち二人を見止めるとニヤリと隙っ歯をチラつかせて笑う。
「おや、ボウヤ。またその花が欲しいのかい?」
きょとんとしたミロの横で俺があっと声を出した。
なんということだ。
あまりに時が経ち過ぎて忘れていた。
あのときの顛末を。
「ちょっと待っといで」
当時はまだ腰も曲がっておらず、髪も白くはなかった老女が家の中に引っ込んだ。
「……知り合い?」
「知り合いと言っていいものか……20年前に一度、お会いしたことがある、というだけだ。……今の今まで忘れていた」
「……20年前じゃ無理もないか。しかしあのおばあさんはよくわかったな」
うーん。そこが不思議だ。
ひょっとして誰かと間違えているのかもしれない。
きっとよく来る知人がこの花を気に入っているのだろう。
そう話し合っていたら、やがて枝をいくつか切りとって紫の花束にしたリラを持って、老女が出てきた。
「ほれ、カノンちゃん」
「……!」
俺の名を?
「なんだかすみません、大事な花を……」
呆けて固まってしまった俺の変わりにミロが受け取って礼を述べた。
その流れでミロが魔女のような風貌の老婆の話相手をしていると奥から中年女性が飛び出してきた。
「ダメよ、お母さん。知らない人に……もうっ。すみません、目を離すとすぐにいなくなっちゃって……」
……ああ、この女性は確かあのときはやはりまだ若かった、この老婆の娘だ。
家に招いてくれてお茶と焼きたてのパイを出してくれた。
「ホラ、お母さん。これから病院でしょ? 車に乗ってくれなくちゃあ」
女性は曖昧に俺たちに挨拶をすると老婆の肩を抱いて門の中に入っていく。
「あのっ、ありがとうございます。この花……とても見事で……欲しかったんです、どうしてもっ!」
俺が叫んで、横でミロが目を丸くし、女性と老婆が微笑んだ。
思い出した、完全に。
20年前、T字路の角にあったこの家で、なんとか紫色の優しい花を手折ってやろうと塀によじ登った俺を、あの老婆……当時はおばさんと呼んだその女性が叱りつけた。
叱った理由は、花を盗もうとしたことではなく、塀に登って落ちたら危ないからだった。
花よりも、俺の身を案じてくれたのだ。
そんな危険なことをしなくても、花をあげるからと家に招かれ、お茶とケーキをごちそうになり、花の言い伝えなどを興味深く聞く。
お茶が終わる頃に紫の花束が渡され、またいつでもおいでと言ってもらったのだ。
あの日、初めて他人に自分の名前を名乗ったのに、すっかり忘れていた。
本当のことは話せなくても、双子の兄のが可愛がられていて、自分は日陰者だという愚痴話も聞いてもらった。
おばさんは言った。
それなら私がずっとボウヤの名前を覚えていよう、と。
言葉通り、20年経って見た目がまるで変わってしまっても彼女は覚えていてくれたのだ。
ただ一度きり、一緒にお茶を飲んだだけの見知らぬ少年の名を。
「ミロ、これは知っているか?」
「うん?」
老婆たちが完全に視界から消えてから、俺たちはゆっくりと歩き出した。
「この花はな、」
“この花はね、花びら4枚だけど、5枚のものがたまに混じっているの。それを見つけたら、黙って飲み込んでごらん? 愛する人とずぅーと永遠に、一緒にいられるおまじないだから。カノンももっと大きくなって、もし好きな人ができたら、やってみるといいわ”
「花びら4枚だが、もし5枚になっているのを見つけたら、黙って飲み込むと愛する人と永遠に一緒に過ごせるといういわれがあるそうだ」
「へぇ。ロマンチックだな」
昔、おばさんに聞いたうんちくを、行きとは立場逆転だと得意になって教えてやった。
するとミロは紫の花束を顔に近づけ、真剣に目を凝らし始める。
「……おいおい」
「花びら、5枚な、5枚。……うーん」
まさか、愛する人が……いる?
それは俺では、ナイ、ですよ、ね? そこの金髪クン。
だっ……誰だ?
相手は……誰なんだ?!
「あ。あった」
「えっ?」
「なぁ、コレ! コレ違わない? なぁ、そうだよな? よし!」
内心、動揺しまくっている俺の前で、5枚花びらを見つけてはしゃぐミロ。
思いつめた俺は……
「ていっ!」
そいつをつまんで、口の中に放り込んだ。
「あぁっ!? 何すんだよ、見つけたの俺なのにっ!」
「ザンネンでした♪」
飲み込んでから、意地悪く笑ってみせる。
内心は冗談じゃないぞ、と苦く思いながら。
「たは~。せっかく、写真とってブログに載せようと思ったのにぃ~!」
「エ? そんだけ?」
「今の話と一緒に載せたかったんだっ! バカノン!!」
「愛する人と一緒になるおまじないすんのかと思った」
「そんなん、本気にするワケないだろが」
ジロリと睨まれた俺は逆に安堵する。
別にだからといって、彼が誰かに想いを寄せていないとは限らないが。
それでも目の前でそんな願い事を見せ付けられるよりはいい。
「ははっ。そうか? 俺は都合のよいことは信じるぞ。さっき飲み込んだから叶うといい」
「ダメだね」
「な……なんで?」
「だって、“えいっ!”って言った。黙って飲み込まなきゃなんだろ?」
「いーえっ。飲み込むときには黙ってましたっ!」
「飲み込む最中にしゃべれるヤツいねーし! 花をつまんだ時点でもうしゃべっちゃダメだろ。……つーか、待てよ? 信じるというなら今現在、その相手がいるってワケだ?」
イタズラな笑みを浮かべるミロに俺も不敵に笑い返す。
「お前には教えてやらんっ♪」
「えー!? なんだよ、それ、ズルイぞ。俺がみつけた花を横取りしたクセにっ」
「フン、関係ないな」
「教えろ、このっ!」
ふざけて体当たりしてくるミロを受け止めて、耳元に囁く。
「そのうち……な」
おばさん、5枚の花弁、飲み込んでみたよ?
愛する人との永遠は、訪れるかな?
大人になった俺が最も欲しいのは、いつも手の届く位置にありながら、手に入れるのが最も難しい黄金の花。
名も知らなかったリラの花のように、いつか手にすることができたら……
[リラの花言葉]
出会いの喜び、友情、青春の喜び、愛の芽生え、初恋、美しい契り、誇り、美