私は悩んでいた。
魔が差した、とでも言おうか。
友人の寝顔に惹かれてよからぬ感情を抱き、その身に小さな痕跡を残してきた。
神に誓って。
これまで邪な企みを胸に宿したことはなく、本当に今度が初めてだったのだ。
だからといって、これが許されざる行為であることは間違いない。
何しろ私たちは、許しあった仲などという甘い関係では一切、ないのだから。
ふと、そんな気分になって。
つい、しでかしてしまった。
そして現在の体たらくである。
テーブルに左頬をあずけ、背を丸めてだらしなく椅子に座っている。
両腕は宙ぶらり。
口は開けっ放し。
目は……恐らく死んだようになっているであろう、私、アクエリアスの黄金聖闘士・カミュである。
「カミュ~。どうしたんですか、一昨日からずっとそうじゃないですか」
生きた屍のごとくになっている私を弟子が揺さぶる。
こんなことになったのは、2日前のことがきっかけだ。
聖戦後、アテナの慈悲で蘇ったものの意識を取り戻すまでにかなりの時間を費やした私。
その間、面倒を見てくれていたのはてっきり弟子の氷河だと思っていた。
目覚めたときに彼の顔があったから、当然のようにそう思い込んでしまったのである。
だが看病してくれていたのは、氷河だけでなく、ミロもだった。
心配のあまり、看護に全ての時間を費やし、己を省みないで共倒れになりそうな氷河を気遣って夜の間を引き受けてくれていたのだ。
少し考えればわかることだった。
彼は私の親友だ。
もし立場が逆だったとしたなら、私が彼を看ていたに違いないのだから。
ならば彼とて、私が眼を覚まさない限り、きっと傍にいる。
それなのに私ときたら……
遅すぎるが礼を欠いていたことに対する謝罪と改めて礼をしたいと思い、天蠍宮に足を運ぶ。
その先で私は愚行をしでかした。
ただし、私以外に知る者はなく、墓の中まで秘密を持ってゆけば済む。
宝瓶宮まで逃げ帰った私は弟子に病身のミロの世話を依頼し、そこまではまだよかった。
ところがいくらもしないうちに弟子が戻ってきて……
「鍵が掛かってて中に入れませんでした。眠っていると思うので一度戻ってきたんですが」
「か、鍵?!」
鍵なんて、かかっていなかった。
ミロに限らず、十二宮の連中は居住区に鍵をかける習慣がほとんどない。
泥棒などが入り込める場所ではないため、防犯意識など皆無に等しいのだ。
互いに勝手に出入りしていて、部屋の主がいなくとも上がりこんで待っていることも珍しくない。
私が天蠍宮に行ったときもいつもと変わらなかった。
鍵は掛かっていなかったのだ。
逃げ帰ってきたときも、もちろんそのままだった。
氷河が私の代わりに下りて行ったのは、そのあとすぐである。
で、もう鍵がかかっていたということは……
(つまり……)
私が悪さをしたのがバレている……その上で、拒否されたということになる。
「……うぶっ。……吐きそう……」
「わあぁあ!? 我が師!! そこで吐かないでっ!!」
謝罪……
今度は悪さの謝罪にゆかねばなるまいか。
自分のしたことを考えると眩暈がする。
これからどんな顔をして会えば良いのだろう。
うう……胃の辺りがずしんと重たい。本当に吐きたくなってくる。
「ちょっと外の空気を吸ってきたらどうです? こもりきりじゃ身体にも良くないですって」
弟子に急き立てられて宝瓶宮の外に放り出されてしまった私は仕方なく、のろのろと階段を下り始めた。
まだ顔を合わせる決心も固まらぬままに、やがて8番目の宮までたどり着いてしまう。
扉の前を右に左に行ったり来たり。
何と言おう?
キスしてすまない?
何故、そんなことをしたのかって?
それは……
……それは……?
つまり……
……つまり……?
私は……
思考の海に沈みかけ、自然と足が止まったそのとき、重くきしむ音を立てて扉が開いた。
「……? カミュ? 何か用か?」
そこから顔を覗かせたのは、第8番目の宮を預かる主・蠍座のミロだった。
「い、いや、その……っ」
覚悟が固まっていなかった私が答えに窮しているとミロは扉の外へ出てきて目の前に立った。
「どうした? ……用が特にないのなら、俺はもう行くぞ」
相変わらずのつれない態度で身を翻すミロを私が追いかけた。
我ながら珍しい構図だと感じながら。
「もう調子はいいのか」
「なんだ調子って?」
「いや……だから……熱……」
「ああ、大丈夫だ。……って、何故、お前が知っている?」
歩みを止めてミロが振り返った。
「…………す、すまん、一度、お前のところを尋ねて……眠っていたので……その……」
しどろもどろに答える私を黙って見ていたかと思うと彼は目線を左上に向けて何事かを考え始めた。
「ふぅん、そうか。それで様子見に氷河をこちらに寄越したワケか。……ったく。おかげで命が縮んだわ」
「……?」
こちらにはわからない何かを納得して一人頷くミロに疑問を抱きながらも、どうやら私の邪な秘密が秘密のまま守られていたことに心底、安堵した。
(だが、それなら鍵は?)
あれに意味がないなどとは思えない。
これまで留守であろうと鍵が掛かっていたことがないのだから。
寝室に鍵がかかっていようとも、外に通じる扉だけは開放されていた。
それに氷河が来たことは知っていたのに、呼びかけに応えなかった。
熱で苦しんでいたとしても、呼びかけくらいには応じそうなものだが、さて。
鍵をかけねばならない理由とは……?
無言で再び歩き始めるミロ。
それをまた私が追う。
「……どこまでついて来る気だ?」
宮から出たところでミロが言った。
「いや、別についてきたワケじゃないか。お前だって外出くらい、するよな」
「……私は……」
……まただ。
また私がミロに会いに来たとは認められていない。
もしやこれは避けられているのではあるまいか?
(私に対して怒っている? ……キスをしたことがバレていないのなら、他に思い当たる節は……)
「ま、待て。何故、そうして私の行動を決め付ける?! 私はお前を訪ねてきたのだぞ」
もう良い。戦場での駆け引きはともかく、日常での心理戦は私に向いていない。
何しろ自他認める口下手で他人とのコミュニケーションもろくに取れない男だ。
察するなど到底できぬ相談だ。
ここは素直に話し合い、相手に訊くべきか。
秘密を隠しおおせたことでいくらか落ち着きを取り戻した私は、相手の肩をつかんで強引に振り返らせ……
「!? ……ミ……それ…は、どう、した?」
建物を離れた、陽の下で見るその顔。
私は驚きに目を見開いた。
口元に治りかけて黄色くなったアザ。切り傷や擦り傷を覆う痛々しいかさぶた。
視線を落とせば手の甲や指にまで小さな傷がいくつもついていた。
宮の中では薄暗くて気づけなかったが、これは一体?
「……何でもない」
「何でもないことはなかろう?!」
「聖闘士が小さな傷にいちいち騒ぐな。大したことはない」
失敗したな、あるいはだから一緒に歩くのは嫌だったんだ。……そんな台詞が飛び出しそうなしかめっ面で彼は顔を背けた。
「仮にも黄金聖闘士であるお前が、戦闘時でもないのにその傷は」
「……仮にもって何だ、仮にもって。朝の訓練で少々やられただけだ」
朝の訓練にミロはここのところ参加していないはず。
熱を出して臥せていたのだし、今朝もいなかったのは私も知っている。
ミロの姿が見えない、どうしたのだとアイオリアからも訊かれたばかりだ。(氷河が)
そういう私も精神崩壊中で引きこもっていたわけだが。
それに傷は治りかけ。今日できた状態ではない。
だとすれば、私の他に訪問者がいたということになる。
そいつが彼に、病床にあったミロに、乱暴を働いたのだ。
傷自体は確かに大したことはないかすり傷だ。だとしても弱っている者を傷つけるなど許すわけにはいかない。
「そうか……カノンだな? カノンなのだな?!」
ヤツだ。
決まっている。
黄金聖闘士であるミロに一方的な危害を加えられるような相手は他にいない。
あの男の、ふざけた顔を思い出すだけで胃の奥が焼けるように熱くなる。
不快だ。
「ち、違う。どうしてそうなる?! もしそうだとしても、別に問題なかろう」
「問題がない?」
「そうだ、問題ない!」
言い切って、ミロは逃げるようなそぶりを見せる。
……から。
私はその腕を捕まえて引き寄せた。