俺に傷つけられたあの日から、アイザックは元々乏しかった表情をますます暗く凍らせていくことになる。
翌日からしばらくは俺を見かけると側にいる先輩海将軍の服を力いっぱい握り締めて、ぶり返す恐怖に耐えていた。
「ここ最近、よく懐いてくるようになりましたね」
「ホームシックで家族が恋しくなってきたんだろ」
「かといって帰すわけにもいかんぞ。もうその身は海皇様のものなのだから」
「帰りたいって失踪事件起こさなくなったんだから、大丈夫じゃないか?」
「…………。」
「どうした、カーサ? 珍しく無口じゃないか。黄昏てんの?」
「黄昏てねーし。つか、あのムスッとした小僧が懐いてきたって本気で思ってんのか、おまいら?」
「……どういう意味です?」
「いやぁ~。なんでもねっ。俺ァ、旦那に恨まれんのはゴメンだから、この件に関しては足抜けさせてもらうわ」
「はぁ? なんだ、それは?」
「……カーサ、何か知っているんですか?」
「知らん、知らん! 俺はなーんも知らん」
他人の心を覗き見る悪癖があるリュムナデスは、いち早く少年の変化に気づいたらしい。
しかし俺の意味深な笑みを見ると首をすくめてそそくさと仲間の輪から離れていった。
その様子に不信感を募らせたセイレーンが俺に向かって鋭い視線を送ってくる。
「アイザック! ちょっとこっちに来なさい」
「……なに?」
アイザックはこちらを一度気にしてから、セイレーンに寄っていく。
話の内容はだいたい察しがつく。
聞き耳立てる必要もないだろう。
俺はひらりとアイザックに対して軽く手を振り、退散した。
放っておいても問題はない。
ヤツは話したりしない。
話せるわけがない。
あの夜のことも、その後も俺に度々呼ばれて言いなりになっていることも。
■□■
成長期のアイザックは目に見えて育ってゆく。
足の関節が痛いと訴えては、すぐに俺を蹴る。
初めはリュムナデスよりも低かった身長は、気づいたら少しばかり超えていた。
鍛えていると一目でわかる身体だが、食が細いためかなかなか肉がつかずに相変わらずひょろっこい。
もっと肉がついてがっちりしてくるのは、背が止まってからなのかもしれないが、土台の骨格が少々華奢だから、今後も体格に恵まれるような気はしない。
中性的な顔立ちのセイレーンでさえ、もっと男らしくしっかりとした体つきをしているというのに。
あと少しくらいは伸びそうな気配だが、だとしてもせいぜい175もいけばいい方だろう。
隣で規則正しい寝息を立てる少年を見て、俺はぼんやりと考えた。
(不思議なヤツだ……)
アイザックという少年は、不思議だった。
俺の理解の範囲をはるかに超えていた。
あれだけ心身共に痛めつけられて、今もこうして身体の関係を強要されているというのに、すっかり置かれた環境に適応して、俺相手にナマイキな態度を復活させている。
少なくとも成長期特有の痛みにイラついて八つ当たりをしてくるくらいには、関係を修復してきていた。
一時は他の海将軍の服の端をつかんで、身動き取れないほど竦み上がっていたというのに。
ふてぶてしいのか何なのか。
それともまだ何か企んでいるのか。
おかげでセイレーンにこれ以上、疑われて腹を探られることもなくなった。
ヤツラは恐らく、俺とアイザックがケンカでもして、今度は仲直りしたくらいの軽い認識でいるに違いない。
今はシードラゴンに懐いているのだとお気楽に思っているだろうか。
(いくらなんでも俺に惚れたというわけでもないだろうな?)
倍の年齢の男に暴力で犯されて、それが良くて惚れたのだとしたら、相当のマゾだ。
俺を見る紅い目に熱っぽさがまるでないところを見ると、ただ割り切っているだけなのだろうか。理解に苦しむ。
無論、二度目からはあんな無茶はさせていない。
最終的には懐柔するつもりであるからには、ムチの後はアメでなければ。
逆らえばこうなる、という恐怖を根底に置きつつ、従ってさえいれば安全なのだと解らせてやる。
対する俺にも変化があった。
雄の欲望が高まれば地上に出て好みの女を引っ掛け、一夜限りの供をさせていたが、それをしなくなった。
吐き出したいと思えば、アイザックを部屋に招けば事は足りた。
病的とも言えるほど白く透き通る肌の滑らかさは、これまでの女の中にも見たことがない。
細く白いそのしなやかな身体は、青白い光を放つ真冬の三日月を思わせる。
大怪我をしているから青白いのだと腕に落ちてきたときは思っていたが、元から色素が薄いのだ、この少年は。
髪は豊かな緑色をしているから、アルビノというのではなさそうだが、ひょっとしたら近いのかもしれない。
両方の目がそろっていれば、そして顔に二目と見れぬ醜い傷を負っていなければ、十分に美形の部類に入る。
涼しげな顔立ちと対照的に紅く燃える瞳。
この組み合わせは、なかなかにそそる。
惜しいことだと包帯で半分隠れた顔を見るたびに思ってしまう。
そうでなければ男色家でもない俺が、わざわざ何度も夜の伽をさせようという気にもならないが。
心は思春期。成長痛に悩む未成熟な肉体。
日に日に成長していく少年の、存在自体を俺色に染め上げてゆくようで楽しかった。
実際にナマイキな口ぶりは相変わらずだが、従順ではある。
支配欲を気持ちよく満たしてくれる、俺にとって都合のいい相手だ。
かといって、気に入られようと媚びてくる女共と違い、Yes・Noはハッキリしている。
はなから他人に頼るという選択肢を持っていない、独立心の塊だ。ただ何も考えずに隷属しているのとは少し違っていた。
そのせいもあるのか、むしろ俺の方が先に心を許していた節があった。
もちろん、本当に心を開くだとかそんなレベルではないが、少なくともヤツに意見を求めることもあったし、諌められれば従うこともある程度には。
そしてこれは自分でも驚きだったが、多少の身の上話をすることすらあった。
そんなとき、ヤツは無駄に口を挟まず、ただ頷き聞き入る。
いつの間にか俺は必要以上に饒舌になっている。
肌を合わせる度にそんなことが多くなり、いつの間にか常になっていった。
「なんで世界征服なんかしたいワケ?」
ベッドに転がり、俺の髪を三ッ編みにして遊んでいたアイザックにいきなり問われて、俺は言葉に詰まった。
「仕返ししたいの? それとも、自分を見てもらいたいの?」
自分を見てもらいたい?
なんだ、そりゃ?
以前の俺なら心の領域に踏み込まれたと激昂していたところだろうが、この時点ではすでにアイザックに対して怒りを覚えなくなっていた。
他のヤツが口にしたのなら話は別だが。
「ははっ。自分を見てもらいたいってどこの自惚れ乙女だっての。……ま、強いて言えば仕返しだな。俺を影に押し込めた聖域の古狸たちや栄光の道でのうのうと生を謳歌していた片割れに、俺の存在を……」
そこまで言って、口を噤んだ。
俺の存在を、何だって?
示す? 認めさせる?
これじゃ、「見てもらいたい」と変わらないではないか。
どこの自惚れ乙女だと一笑にふした手前、続く言葉を失ってしまった。
「……ハァ。……しょうがないな……」
黙った俺をしばらく見ていたアイザックは、嘆息すると共に完成した三つ編みを放って、次のひと房を手に取った。
「あん?」
「しょうもない人だな、オトナのクセに」
さっきから、せっせと細い三つ編みを大量生産してくれている。
後で解くのが面倒だからやめて欲しい……と言うとハサミで切ろうとするから大人しくいじらせておく。
「………なに…?」
「しょうがないから、…………………………味方、してやる」
たっぷり間をおいてから、ヤツはそう口にした。
目はやはり真剣に髪を編む方に向けられている。
つまらなそうで可愛げない表情も普段と変わる様子がない。
だが、確かに言った。
俺に味方する、と。
「……ハッ。秘密を知っても……このカノンにつくか」
俺は笑った。
なんとも小さく頼りがいのない味方であろうか。
けれど、愉快だった。
このとき、確かに全世界は俺の敵だった。
そんな中において、たった一人の味方を得た。
その重要性をもっと理解していれば……
「……見返りに何を求める?」
「見返り?」
髪を編む手が止まった。
そしてまた何事もなかったように動き出す。
「ああ、それがないと心配か。でも、今は言わないでおく。きっと通じないだろうから」
「は?」
「裏切らない確たる証拠はいずれ、見せてあげるよ。そのときに、俺もきっと見返りを受け取って……いるかも、しれない」
そして、彼は笑った。
初めて年相応に、無邪気でイタズラっぽい笑顔を、魅せた。
「なんだ、そりゃ?」
俺は、何も理解していなかった。
見返りが何だったのか。
俺は多感な時期の少年の全てを奪った。
自尊心も身体も未来も、命さえ。
全て、俺に捧げさせた。
結局、道具のままアイツは逝った。
俺は面と向かって、お前は所詮、道具だと言い続けてきた。
それでもついてくるかと何度も確かめていたのだ、無意識に。
肯定の言葉を求めていた。
俺は誰かに存在を丸ごと肯定して欲しかったのだと思う。
自分を道具だと思い込まされていたアイツが最期に放ったであろう、美しくも冷たい輝きは、当時の俺に響くことはなかった。
負けたのか、案外、他愛なかったな。
そう、舌打ちしただけだったのだ。
あれだけ依存していたクセに。
役立たずと心の中で罵った。
言い訳を許されるなら、自分の野望が潰えるかどうかの瀬戸際で焦っていた。
今なら……
女神の慈悲を知り、贖罪に付き合ってくれた得難い友を手にした今の俺ならば……。
他人の痛みを知ることが出来た。
アイツの言う「見返り」の意味も、アイツが真に求めていたことも、理解できたハズなのに。
「見返り」とはただ……俺が人としての俺を取り戻すこと。
それだけだったのだ。
アイツ……あの子が求めていたのは、恋でもましてや快楽なんかでもない。
俺と同じ、無償の愛で存在の肯定。
彼は誰かの役に立つことで認めてもらいたかったのだ。
そんな簡単なことにも気づかずに……
ココニイテモ、イイデスカ? アナタノトナリニイテモ、イイデスカ?
「おい……大丈夫か?」
遠慮がちに肩に手が置かれた。
隣にしゃがんだのは、俺の好きな紅……
その目は青く澄んだ空色。
あの少年の翳った紅い瞳とはまるで違う。
だが真紅が誰より似合う、お日様色の青年だ。
俺やアイザックの持つ、色褪せ冷え切った光などではなく、ヒトを生かす温かい灯火。
以前、彼は口にしたことがある。
親子関係が逆転した家庭で育った子供は不幸だと。
親が子供に親の役割を負わせて甘えるから、本来、甘えていいはずの子供は甘えを知らずに生きてゆくしかない。
子供の頃から大人であることを強要された子は、必死に自分よりも大きな親を支えて、いつか疲れて壊れてボロボロになってゆくのだと。
子供は一身に愛情を注がれることで、大人になる。
子供時代に満たされるから、それを周囲に分けてあげられるのだ、と。
何故、そんなことを俺に語ったのか……
難しいことを知っているんだな。心理学者にでもなるつもりかと俺は笑って深く考えなかった。
だが、彼は他でもない、俺を指して言っていたのだ。
俺に、アンタは子供だと。
別に親やそれに代わる人間を支える健気な子供なんかではなかったが、全てを否定されて生き、愛情など知らずに生きた。
だから、誰にも何も与えることが出来なかったのだろう。
これはそのままあの子にも当てはまる。
彼が置かれた環境も短く生きた足跡もほとんど知らない。
俺ばかりが己のことを語って、相手の身の上になど興味を抱かなかったから。
けれど判る。
アイツは俺と同じ種類の人間だった。
俺たちの関係は傷の舐めあい。
俺は心理学とやらに明るくないが、今隣で俺を気遣ってくれている友人の言葉を借りるなら、共依存というヤツだったかもしれない。
俺は少年に受け入れてもらい、肯定されることで依存し、少年は俺の望みを叶えることで必要とされたがった。
大人である俺と子供であるあの子の立場の逆転は、そこで行われていた。
俺と違い、あの子に帰る場所はあった。
迎えてくれる人もいた。
しかし恐らく、そこにおいても漠然とした寂しさを抱えていたのだろうと思う。
少なくとも満たされてはいなかった。
そこは愛すべき場所でありながら、彼にとっての戦場だったかもしれない。
あるいはそこでも守る者と守られるべき者の、逆転の法則があったかもしれない。
キレイな顔に醜い傷を負った理由を自ら明かすことはなかったが、弟弟子の安否を気にしていたから、すぐにわかった。
そいつを助けて受けた傷だと。
彼は俺よりもまだ少し、他人に与えられるものを持っていた。
持っていたけれど、俺と違い、惜しみなく周りに分け与えていた。
そして自らの手には何も残らなくなる。
渡すものがなくなってしまったら、今度は自らを削り取って与えた。
そして若すぎたその命をも手放す。
……俺の味方であることを証明するために。
「星の……ターラーだ」
あの子の事を考えていたら、ふいに、残された僅かなものを他人に譲ってしまう愚かな少女の物語が頭を掠めた。
「なぁ、ミロ」
「うん?」
「星のターラーの女の子は……本当に、空から降ってきた銀貨を受け取って幸福になったのだろうか?」
「何だよ、急に。……星の銀貨はそういうラストだったと思うけど……それが?」
「……本当は……女の子の……ただの……」
死に際の、悲しい空想だったのではなかろうか?
ひと擦りのマッチが見せる、わずか数秒間の夢に縋って死んだマッチ売りの少女のように。
身に纏うものさえ失くした少女は、独り凍えて幸福な夢を見ただけなのかもしれない。
俺に全てを与えて儚く散った少年を物語に重ねたら、たまらず込み上げてきた。
後悔と怒りと謝罪と愛しさと悲しみと。……それによる胸の痛みと。
「……愚かだ」
「……はい?」
「自己犠牲は美しいのかもしれないが、愚かだ。何故、自分のためだけに生きられない? それは悪いことなのか? その“少女”は……腹がすいた自分のために乞食から食い物を取り上げ、寒いと自分の衣類を強請ってくる少年たちから、自分を暖めるために衣類を剥ぎ取っては、いけないのか?」
生きる努力はどうなる?
生きる努力を放棄してまで、見知らぬ他人を生かすのか?
わからない。
わからない。
生きていて欲しかったのに。
今更、何を言う。
そうなるように操って、仕向けておいて。
ああ、おのれ。
俺よ、呪われてしまえ!
髪を掻き毟って、大地に拳を叩きつけた。
「……そうだなぁ。うん。主人公の女の子が貧しい人たちに強盗働くと星の銀貨落ちてこなくなっちゃって、別の物語になってしまうよなぁ。だけど……」
懺悔をしにここまで来たというのに、独りでは大き過ぎる罪にとても向き合えないという情けない俺に付き添ってくれた年下の友人は、叩きつけた拳にやんわり手を重ねてきた。
「だけど、それも美しいと言えるんじゃないか? 強盗は……いや、そりゃマズイし許されるというものではないが……生きるための必死さは、見た目にスマートでなくとも俺は好きだぞ。それに正しいかどうかなど、人によって立場によって変わってしまうものだろう。普遍の正義も少しくらいはあると信じたいところだが。結局、どれが一番正しいなんて、そんなの、誰にもわからないさ」
俺は、無駄に年ばかり重ねて、年下に教えられてばかりだ。
「な、もう、帰ろ? 懺悔したい気持ちはわかるが、一度に抱え込むのはあまりいい方法とは思えない。ここへは落ち着いてから、また来ればいいじゃないか。いくらでも付き合ってやるから」
頬を伝い落ちる涙を拭ってくれる指先。
こんな温もりも、あの子は知らない。
なのに俺はぬくぬくと……
「ほら、大の男が泣いていたらみっとも恥ずかしいだろ。えと……ハンカチ、ハンカチ」
友人はポケットを探り、
「あった!」
得意満面に言って、
「コレを使え……って、あれ? なんか出てこな……!? えい、このっ!! 何でだ?! 引っかかるものなんてないハズ……」
あわてて力いっぱい引っ張っているそれは、たぶん、
「ギャ!? 破れた!?」
たぶん、ポケットの裏地だぞ。……我が最愛の友よ。
「……あり? こっちのポッケだったわ」
裏地とは似ても似つかないハンカチを受け取った俺は、これをどうやったら間違うことが出来るのかと不思議に思いながら、鼻をかんで返却した。
「ばっか、おま……っ!? 涙拭けって渡したのに、なんで鼻かむんだよっ!? そして俺に握らせるな!! うわ、なんか生温かっ!! ヒトの親切を……コイツ……ッ! 相変わらずサイテー!!」
キャンキャン吼える青年に、人目を憚らず抱きつく。
するとすぐに背中に添えられる、温かく、優しい手。
愛情欠乏症でかつ、強烈な依存症である俺が求めた、全てのものが今、ここにある。
両手を伸ばせば抱き上げてくれる母親のように、彼は無言の求めに応じて、抱き返してくれる。
しょうもないオトナとあの子に呼ばれた俺は、こうして周りから貰うばかりで何も返せてはいない。
いつか、見返りを誰かに渡すことができるのだろうか?
「……優しい子だったんだ」
「うん……」
「自分よりいつも他人が優先だった」
「うん……」
「傷ついても助けを求める手を伸ばせない、強がりで虚勢を張ってるだけの……臆病な子供だった……」
「うん……」
「その気持ちは俺が一番知っていたハズなのに……俺は……手をにぎってもやらなかった……」
いや、握らなかったどころじゃない。振り払ったのだ、俺は。
「そっか……それは可哀想なことをしてしまったな」
海界での事情など、何も知らぬ相手はひたすら頷き聴いてくれた。
俺の丸まった背中を、子供をあやすよな一定のリズムで軽く叩き続けて。
とめどなく流れる涙を胸で受け止めてくれる。
頭に乗せられた顎の重さが心地いい。
俺も……
こんな風に接してやれていたら……
この果てない後悔が罪深き俺への真の罰か。
それでも俺は、醜く生きる。
決して、美しく散ったりはしない。
命ある限り、贖い続ける。
[終 了]