敵の監視を逃れるため、我々二人は敢えて同胞に討たれ、冥府へ舞い戻った。
そこで地獄の三巨頭の一角であるワイバーン・ラダマンティスに申し出た。
もう一度、チャンスが欲しい。
冥王に会わせてくれ、と。
さすがにそれですんなり通してもらえるとは思っていなかったが、言うだけはタダとばかりに、デスマスクは哀れを誘うように懇願する。
さりげなく片腕を伸ばして、私を後ろに下げた状態で。
……こんなときにさえ、私は気遣われているのだな。
私は長い間、秘かに兄として慕ってきた戦友の背中を見つめた。
敵本陣の真っ只中に味方は互いのみ。
切迫した状況で私はつい、笑い出しそうになってしまった。
ここで笑ってしまっては、相方の名演技が台無しだ。
二人がかりでこの偉そうなトカゲ野郎を屠ってもよかったが、冥王はこの城ではなく、地獄のもっと奥深くにいるというデスマスクの予想を信じた。
目指すは地獄の最下層。
我ら二人とはまるで違う毛並み……そう、どちらかといえばシュラのような生粋の誇り高き戦士であるワイバーンを挑発するのは容易いことだった。
クズはクズらしくしていればいい。
そうすれば、すぐに激昂して喰らいついてくるだろう。
目の前から醜き者を消し去ろうと。
“よし、逃げるぞ、アフロディーテ!”
目配せで合図を送られ、私はデスマスクに習い背中を向けて走った。
目の前にある、あの巨大な穴に飛び込むためだ。
下からは得体の知れないガスが噴き上げており、多少の躊躇はあったが、行くしかない。
あの穴が最下層への最短距離だというならば。
自分たちで逃れようと穴に落ちる……その演出をするまでもなく、ワイバーンにつかまって放り込まれた。
やめろ! やめてくれー!!
……なんて、これまで口にしたことのない台詞を吐くのは楽しかった。
敵のど真ん中で寸劇なんて愉快なこと、滅多に体験できるものじゃない。
大いに楽しもうじゃないか。
真っ逆さまに落ちていきながら、ついに私はおかしくて噴出してしまった。
「ははははっ! 頼む、やめてくれー! だってサ♪」
「笑ってる場合か」
デスマスクは空中で回転し、体勢を直して壁に拳を打ち込んだ。
「気をつけろ。下はコキュートスだ。落ちたらマジで助からねーからな」
ついでに私の腕をつかんで、落下を止める。
「コキュートス?」
「“嘆きの川”って意味だが、実際には氷地獄だな。“裏切り”を犯した罪人が永久に氷の中に閉じ込められて罰せられる場所よ」
ソレが地獄の最下層にある。
そして冥王の御首級を頂戴するための最短ルートなのだ。
「裏切り者の末路か。フッ……我々に相応しいではないか」
「ああ。だが、俺たちはゆっくり氷漬けになってる暇はないからな」
「わかっているさ」
デコボコ突き出た岩肌を頼りに、慎重に下ってゆく。
「……あの方たちは、上手くやっているかな」
こちらが順調に事が運んでいると、地上に赴いたサガたちが気にかかり始めた。
「……心配か?」
「いや……」
口ごもった私にデスマスクが笑いかけた。
いつものように、口の片端を吊り上げて。
「なぁに。サガは最強だ。心配いらん。シュラもついていることだし、カミュもあれでいて頼りになる」
「ふ、そうだな。むしろ心配なのは、迎え撃つヒヨッ子たちか」
表向きはあくまで、アテナの首を取ること。
となれば、生き残っている6人の黄金聖闘士は死に物狂いでかつての同胞を討ちにくるだろう。
6人中、1人は老獪な戦士であるが、残りは全員、サガや我々に可愛がられていたような若い連中だ。
伸び代は私たちよりもあるが、まだまだ詰めが甘く、荒さが目立つ。
(同士討ちなんか、誰も望んでないのに……)
真実を伝えることが出来ないのが歯がゆい。
どちらも嫌だ。
ヒヨ子たちがサガたちに殺されるのも、サガたちが若き力に押し切られて討たれるのも。
私は嫌だ。
私は、キミたちが好きなのだ。
キミたちがいて、私の心の聖域は保たれているんだぞ。わかっているか?
一つ年を数えるごとに、増えていく大事なもの。
子供の頃は片手で足りたものが、今は両手から零れそうなほど。
きらきら、きらきら……宝物がいっぱい……
私は見知らぬ女神のために戦えない。
私は私の聖域を守るために戦うのだ。
「要はよ」
私の不安を見抜いたデスマスクが陽気な声で言った。
「うん?」
「そうなる前に俺たちが、さっさと冥王の首を盗っちまえば……」
“チェックメイトさ!”
彼は岩肌から手を離し、距離が近くなったコキュートスの表面に着地した。
「……そうだな」
しっかりと凍っている場所を選び、私も追って飛び降りた。
「いつになく、頼もしいじゃないか、デッちゃん」
「いつだって、頼もしいの間違いだろが」
水面に落ちたら、這い上がる間もなく凍結してしまうというからこの先、コキュートスを完全に抜けるまでは気を抜けない。
「ご、黄金聖闘士か!?」
「お前らどこから……」
もう少しで氷地獄とお別れという地点で敵に遭遇した。
敵に攻撃する隙など与えん! 先手必勝! 我が敵を砕け黒薔薇……
「ピラニアンローズ!!」
「積尸気冥界……」
「デッちゃん、ソレ、ここじゃ通じない……」
「あ、そか。……ならこれだ! キャンサークロウッ!!」
素早く敵を倒し、そのまま氷地獄を抜ける。
「ネズミが2匹、入り込んだぞー!!」
「討て、討てーっ!!」
騒ぎを聞きつけた冥闘士共が集まってきた。
「おやまぁ。こりゃまたずいぶん豪勢なお出迎えだな」
「まだ上のハーデス城にいるのではなかったのか、冥闘士共は」
「さてね。一部が降りてきているのかもしれねぇな。……こいつぁ早いトコ、ハーデス様を探して八つ裂きにしないとな!」
デスマスクの言うとおりだ。
行く手には見渡す限りの敵の群だが、これでも恐らく、まだ手薄なのだろう。
大将であるハーデスがいる場所に護衛がいないのもおかしな話だ。
このくらいいるのは、当然である。
「ハッ! 大勢の敵さんに熱烈歓迎受けて、頼りは自分と相方のみ。いいね、カッコイイね。まるで主人公じゃないか、ええ? デスマスクよ!」
背中合わせに立って、襲い来る冥闘士を打ち倒しながら叫んだ。
「わははっ! 主人公だって? 面白れーコトゆーな! これ以上のミスキャストが他にあろうか」
次から次へと沸いて出るような敵の軍勢。
徐々に削られていく体力。
これはたぶん……冥王までたどり着かないな……
チラと考えた。
いや、最初からこの状況は予想済みか。
私は苦笑した。
何しろ、たった二人だ。
だから教皇シオンは、本命のサガたちを十二宮へ向かわせた。
私たちは後から来る仲間たちを信じて、一足先に地獄の露払いをしておけばいい。
一人でも多く、敵を屠るために。
少しでも仲間の負担を減らすために。
栄誉ある捨て駒なのだ、我ら二人は。
「チクショ、倒しても倒してもキリがねーな」
私に言ったのか独り言なのか、どちらにせよデスマスクのつぶやきに答える余裕を私はなくしていた。
……なんだかおかしい?
息が上がるのが早過ぎる。
私よりもよほど体力があるはずのデスマスクでさえ、肩で息をし始めている。
ずっと感じていた違和感がここにきて表面に現れ始めた。
「……うっ!?」
一瞬、胸に激痛が走る。
「どうした、アフロ……あ……なん、だ、これ……は?」
デスマスクの身体がぐらりと傾いた。
やがて、私たちは察するに至る。
12時間以内にアテナの首を取って来いと命ぜられた意味を。
「くそ……っ。12時間……そういうコトかよ。……ハハッ。道理で……都合が良過ぎって思ったんだよ」
私たちに与えられたのは、アテナの首を持ってくるまでの仮初の命だったのだ。
「……とりあえずあれだ」
「うん?」
足に力を込め、倒れ掛かった身体を何とか引き起こしたデスマスクが私に言った。
「トンズラこくか」
「……大いに賛成」
でも、どこへ?
とにかく、遠くへ。
「よしっ、満場一致で……」
「戦略的……撤ッ退ッ!!」
最後の力を振り絞り、敵をなぎ倒しながら当てもなく突き進む。
通った後には大量のロイヤルデモンローズをばら撒いて行った。
これで多少の時間稼ぎはできるはずだ。
「あとどのくらい残っているのかな?」
光の届かない地獄では時間の感覚がない。
朽ちた神殿跡に身を寄せて、私は膝を折った。
上手いこと敵を出し抜いて隠れたが、もう限界だ。走れない。
「時間か?」
「ああ」
「さぁな。でもそんなになさそうだ。力がどんどん抜けてくみてーだもんよ」
ドッコイショ、なんてジジクサイ掛け声をかけながら、デスマスクもその場に腰を下ろした。
これはもう、追っ手が現れてもすぐに戦える体勢じゃないな、二人とも。
まぁいいさ。どうせ臨戦態勢をとっていてもたかが知れている。
だるくてまるで力が入らない。
「ハーデスの野郎の首獲ってやろうと思ったが、ちょっと無理ぽいな。まぁ、これだけ敵の数を減らしゃ文句言われねーだろ」
いつものようにタバコを吸おうとして身体を探り、自分がつい半日前まで遺体だったことを思い出したのだろう。軽く舌打ちして、デスマスクは崩れかけの壁に後頭部をつけた。
「なぁ」
「あん?」
そんな彼に、私はかねてからの疑問を投げかけた。
「……デスマスクってまさか本当の名前じゃないだろう?」
死ぬ前にわざわざ名前を聞くのも何だが、いい加減、付き合いが長いというのに彼の名を知らないままというのは、少し寂しい気がしたのだ。
「なんだ、いきなり。しかも今更かよ」
「いや、昔から気にはなっていたんだ、さすがに本名ではないだろうから」
「当たり前だ。そんな名前をわざわざつける親がいたら、それだけで虐待だわ」
「だろうな。なら、本当の名はなんだ?」
「んなモンはナイ。ただ、ソレがオレだとわかればいいんだから、記号でもなんでもいいんだよ」
……マジか。
名前すら本当に持ってなかったのか。
それでいて、ついてる呼び名が、“死仮面”とは。
私の名前も相当滑稽だが、彼には負けるな。
なんとも救いのない話だ。……ふはは。笑ってしまう。
「そんなんでいいのか、“ジョン・ドゥー”くん」
「うるさい、“名無し”と呼ぶな」
名無しを示す名詞でからかう私を軽く睨み、それからすぐに彼は声のトーンを落として話題を変えた。
「……それより……お前こそ、こんなんで良かったのか?」
「何が?」
「本当は…………サガと行きたかったんだろ」
言いながら、デスマスクは光の一切見えない天を仰いだ。
私も自然と視線の先を追う。
「…………何故?」
「昔から、サガのこと……まぁ、なんつーか……好きだったみたいだからな」
「そりゃ……」
言いかけて口を噤んだ。
憧れていた。
……好きだった。
得体の知れぬ恐怖を伴った、妖しい魅力に絡め取られて、抗うことができなかった。
神の如き強さと鋼鉄の非情さを有していながら、繊細でひどく脆い心を抱えるあの方を、放っておくことができなかった。
例え道具として扱われようと、少しでもあのお方の力になれるなら、この身はどうなっても良いとさえ思い詰めていた。
私如きがいくら背伸びしてみても、到底、届かないと解っていたのに。
”見てて、サガ。私が強いってこと、証明してみせるから。”
もし、私があの方のために死んだとしても、きっと省みられることはないであろうに。
それでも。
一瞬でもいい。
あの人の目に、記憶に残りたかった―……
「だから加担したんだろう、正体知っても」
「……なんだそれは。加担したのは、キミとて同じではないか」
動揺した心を不機嫌な態度で誤魔化す。
いつから知っていたのだろう? 見透かされたのが、とても惨めで恥ずかしく思えた。
「俺か? 俺ァ、単に暴れられる舞台がありゃそれでいいのよ。それに、アレだ。……あのヒト、完璧に見えて結構、間の抜けたトコがあっから、しょーがないんで付き合ってやってただけ」
「うっかりパンツはき忘れてるとか?」
「バカ、うっかりなんかじゃねぇ。あれは平常運転だ、あの人の」
「……十八番だな」
「しょうもない、な」
「ダメなヒトなんだよな、俺たち(私たち)がいないと」
二人同時に言葉が出た。
味方が誰一人いない敵地で、足を投げ出し下らない話に興じる。
この時間の、なんと幸せなことか。
……愛しいことか。
ここにあの方やシュラがいてくれたら……もっと良かったのに。
でも、
(キミと二人というのも悪くはないよ、デッちゃん)
横顔を見て、微笑む。
そう。悪くない。
むしろ、良かったと思う。
最期に隣にいるのがキミで。
私の気持ちを知ってか知らずか、デスマスクは陽気に話し続けた。
「それに世界征服とか、幼稚な夢に乗っかるのも面白そうだったしな」
「はははっ。幼稚って……」
「だってそうだろ? なんだよ、世界征服って。子供向けのヒーローショーかってーの。……あ。今の言いつけんなよ? 他の連中に甘いクセして、俺には容赦なく怒るんだから、あのオッサン」
言いつけたくてもそれが叶わないって知っているのに、まるで明日も明後日も平和で退屈な日常が続いていくかのように彼は冗談を飛ばす。
あと数分、あるかどうかわからない命なのに。
「キミのそういうトコ、好きだな」
「……は? なんだ、いきなり」
何でもないと笑い、何気なく髪を掻き揚げて…………血の気が引いた。
「……どうした?」
「…………。」
固まってしまった私を怪訝そうに覗き込んできたデスマスクの表情も一変して凍る。
「……お前……髪……」
通した指にごっそりと大量の毛髪がからんでいる。
ついでに、頭皮と思われるものまで。
恐る恐る顔に触れてみたら、ズルリと一部の皮膚が落ちた。
隣で息を呑む音がした。
ついに12時間の魔法が切れるときがやってきたようだ。
「デッちゃん……。下手に自分のこと、触らない方がいいぞ。……崩れるから」
ショックを飲み込んで、やっとのことでそう言うと、デスマスクは……デッちゃんは、掠れた声で「大丈夫か?」と小さく訊ねてきた。
「これが大丈夫に見えるなら相当、目が悪いね、デッちゃん。……ああ、ゴメン。悪いのは頭と顔だったわ」
ジョークのつもりだったが、デッちゃんは笑わなかった。
いや。
笑ってみせようとはしたみたいだが、失敗して口元がひくついただけに終わったんだ。
「そんな顔をしないでくれ。どうせ遅かれ早かれ、デッちゃんも同じなんだからサ」
「は……はは……美の戦士も形無し……だな」
「いいさ、そんなの……」
天と地の狭間に輝きを誇る美の戦士……か。
どこの誰がつけたかわからんフザけた二つ名など、どうでもいい。
……想い人一人、振り向かせることすらできなかった容姿なんて。
下衆な連中を喜ばせるだけの容姿なんて。
「別にいらなかった」
「え~……と」
私を慰めようと頭に手をやりかけて、デッちゃんは困った顔をした。
触ったら、崩れてしまうから。
「お? ナデてくれるつもりだったのかい? フフ、ありがとう。デッちゃんはいつも優しいなぁ」
「似合わないこと言ってんじゃねーよ、ばぁか。…………あっ!?」
「……え……?」
デッちゃんが私を撫でようとしてやめた腕が、重い音を立てて地面に落ちる。
「はは、俺もキタわ」
重い沈黙を挟んで、デッちゃんが引きつった笑みを無理に浮かべた。
二の腕の途中から、肉や筋がこびり付いた骨が露出していた。
「……痛いの、それ?」
落ちた腕と剥き出しの骨を見比べて聞いてみた。
「……いや。幸い、もう感覚が鈍くなってる」
「そうか。それは……その……良かった」
良かったと言っていいものなのか迷ったが、それ以外、選ぶ言葉が見当たらなかった。
「お前の顔は?」
「ま、似たようなもの」
話題に詰まって、しばし無言の空気が流れた。
さすがに少々、いやだいぶ…………怖い。
急速に進んだ身体の腐敗は、私たちを精神的に追い立てる。
時間がない。時間がない。さあ、残りわずかな時間を使って、お前は何を伝える?
何を、何を伝えたらいいだろうか?
ふざけてばかりじゃなくて、もっと……大事なことがあるはずなんだ。
気持ちばかりが逸って、頭が上手く回らない。
「……悪かったな。最期に隣にいるのが俺なんかでよ」
先に沈黙を破ったのは、デッちゃんだった。
「ハ? 何言っちゃってんの? もしかして、さっきの話、終わってなかった?」
質問で返したら、黙り込んでしまった。
割と、真剣に言ってたんだな、さっき。
恥ずかしくなった私が途中で話の腰を折ってしまったのだ。
もう茶化してはぐらかすのはやめよう。
彼が知りたいのなら、何でも、どんなことでも答えよう。
恥を忍んででも。だって、もう残された時間がない。
「……いいんだ。あの方は、連れて行くメンバーを選べと教皇に言われたとき……私を指名しなかった」
てっきり、私とデッちゃんとシュラを連れて行くと思った。
でも選ばれたのは、シュラとカミュ。
なんで私たちを選んでくれなかった? 連れて行ってくれなかった?
ずっと貴方の影として付き従ってきた我らなのに。
貴方の苦悩も罪も全て知った上で、側に仕えていたのに。
なのにどうして、最期の刻を貴方の側で迎えさせてくれなかったのか。
答えは簡単。
指名されるだけの価値が私になかったと、そういうことだ。
シュラとカミュを連れていた方が役に立つ。
聡明なあの方のこと。そのようにお考えになってのベストな選択だったハズ。
「いやぁ、それは違うだろ。ホラ、俺がお前と組むって先に言っちまったから……」
……違う。
それこそ、違うじゃないか。
私は黙って首を横に振った。
あの方が、私を指名しなかったから……シュラを指名した後、私を通り越してカミュの方を向いたから……だから、キミは……
“おい、俺と組もうぜ”
あの方がカミュを指名するのを察して、その前に口を挟んだ。
「それに信用されていたから、俺らはこっち側に回されたんだろ。手元に俺ら三人のうちの一人……シュラを置いて、残り二人の俺らは別働隊だ。なぁに、深刻に受け取るこたねぇって。いつものあのヒトの布陣じゃねーの。カミュはミソっ子だから保護者同伴ってトコだな」
「……そっか……そういや、そうだったかもね」
私はデッちゃんの話に乗ることにした。
「ぉおお、そうだ。うん、そうともさ」
我ながらいい事を言った、みたいにデッちゃんは何度か頷いた。
あんまり頷くと首がもげるよと釘を刺したら、……ははっ。そのままフリーズしてやんの。
(……そうさ。もう、いいんだ。あのヒトなんか、もう知らない。想えば想うほど、私が壊れてゆくだけなのだから……)
もし……、
もしも、
例えば。
生まれ変わりがあるのだとして、幾星霜巡り巡っても、あの方は私に振り向きはしない。……きっと。
だから私ももう二度と心を寄せたりはしまい。
うん、決めた。
私がいつまでも鬱々としていたら、兄貴気質のデッちゃんが頑張らねばならなくなるからな。
「デッちゃんはどうなんだ?」
さよなら、長年私の心を美しい恐怖で縛り付けてきたヒト。
もう二度と会うこともない貴方は、どこで朽ちていくのか。
私は最期の刻を、今、隣にいるヒトと共に迎えられることを感謝している。
貴方はどうなのだろう。
できれば貴方が最期を迎えるときは、孤独でありませんように。
私は長い年月、熱に浮かされ続けていた心を今、手放して葬った。
「どうって何がよ?」
「最期を共に飾るのが私で構わなかったのか?」
「……別に。そんなモン……」
「はは、誰でも関係ねーってか? 実にキミらしいね。いっそ、清々しいくらいだ」
「……そうは言ってねーだろ。俺はなぁ、」
「私はね」
「んー?」
「私は、キミと一緒で本当によかったと思っている」
「……はは、ホントかよ。ウソクセ」
「道化同士、私たちはとてもいいコンビだった」
「ピエロ、……か。……ま、そんなカンジだったかもな」
私が真顔で言えば、デッちゃんはいつもの、特徴的な口の端を吊り上げる笑みを浮かべた。
「キミがどう思っていようと、私はキミと二人で最期の時間を迎えられることを感謝している」
私は手の中に残った薔薇の種に最後の小宇宙を送って、花開かせた。
深紅の毒薔薇・ロイヤルデモンローズ。
甘い芳香に包まれて、痛みを感じることなくやんわりと意識を奪ってゆくこの薔薇を、私たちの餞としよう。
「デッちゃん」
「はいよ」
「今度、キミにちゃんとした名前をつけてあげるよ」
「そらドーモ」
どんな名前がいいだろうか?
格別に格好の良い名前がいい。
何度でも呼びたくなるような、響きの良い名前がいい。
もう、誰にもキミを名無しの道化師とは呼ばせない。
「デッちゃん」
「はいよ」
「……あいしてる」
「そらドーモ……って、は?」
薔薇の毒香のせいか、虚ろに瞼を閉じかけていたデッちゃんがパッチリ目を開いてこちらに顔を向けた。
「大好き。マジでクソ愛してる」
驚いた表情を浮かべるその顔を両手で包み、口づけをした。
もはや、互いに生の温もりを感じることはできなかったけれど。
私はこれで満足だった。
………………。
……………………。
…………………………。
■□■
かつて、アフロディーテであったものが、俺の目の前で崩壊していった。
俺に死に際の接吻を与え、特別な親愛の言葉を残し。
青い宝石アクアマリンを思わせる瞳が眼窩から零れ落ち、滑らかな白い肌が雪崩のように顔面の組織を引き連れて流れた。
この世のものと思えないほどの鮮烈な美を人々の目に焼き付けた、神の芸術作品が最も醜く、残酷な形で壊されてゆく。
実を結ぶことなく狂い咲き、儚く散った徒花。
「チッ。一方的過ぎんだよ」
(俺にまともな返事ひとつさせないで……)
「クソ愛してるってどんな表現だっつーの……」
(まったく、美の戦士とあろうものが。雰囲気も何もあったものじゃない)
かつて“美”そのものであった肉体の崩壊を少しでも遅らせたくて、俺は腕を伸ばした。
だが、それすら叶わず、両の腕が肩口から落ちる。
……これでは肉をなくして傾いていく、アイツの体を抱きとめてやることもできやしない。
チクショウが。
「オカマオカマってあんまからかうなよ、デス。また殴られるぞ」
「だってしゃーねーじゃん。女子みてーなんだもん」
「……ちょ……ちょっと……か……かわいぃ……もんな……女子みたいで」
「……う、うん……かわいぃ……」
「…………。」
「…………シュラ、どう思う?」
「ど、どうって?」
「どうってって、だから…………何でもない」
二人の少年が不器用な会話をしながら、野原に座って雑草を手持ち無沙汰に千切っては投げる。
そんな光景が遠く、見えた。
どこかで見たことあるような光景だな……なんてぼんやり眺めていたら……
あ……れ?
俺、今……意識失っていたのか?
何か見ていた気がしたが、思い出せない。
薄くまぶたを上げれば、首と両腕を失った、自分の身体が上に見える。
……なんだよ……首、もげてんじゃねーか。しょうがねぇなぁ。
やがて視界も霞んで、音も遠のいていく。
そうだ、今度、俺に名前つけてくれるんだっけか、アイツが……
変な名前じゃなきゃいいけど……
最後の思考がそれだった。
肉を失くした俺とアフロディーテは、折り重なった状態で沈黙する。
散りばめられた紅い薔薇が、名もなき俺たちの墓標。
[終了]