「ついに……ついに手に入れたぞ、サルマキスの泉! ……の水!!」
とある泉の水を満たした瓶を高々と掲げた。
……冥界にある自分の部屋で。
くるりと身を翻し、姿見に指を突きつける。
「知っているか、諸君!」
私は鏡の中から私を見つめている人物(つまり私だが)に向かって言った。
「サルマキスとは!」
サルマキスとは、水の精霊ナイアスの一人である。
彼女の住む泉の水を飲んだ者は、ど、ど……同……ど……同性……に惹かれ……
「う、お、おっ!! やっぱり、そんなハレンチなことは口にできーんっ!!」
私は髪を掻き毟ってその場に倒れこんだ。
ついうっかり冥衣を着たままやってしまったので、頭皮にいらんダメージを与えてしまった。なんか血が垂れてきた。
「ふうふう、はあはあ。落ち着け、落ち着け、私」
この水をつながり眉毛がチャームポインツなあの方に飲んでいただきたいのだが……。
どうしたものか。
瓶をテーブルの上に戻し、ソファに身を預けた。
何回も同じような動作をして少々疲れてしまった。
テンションが上がったり下がったり忙し過ぎる。
そういえば騒いで喉が渇いたな、水でも……
瓶を手に取り口につけようとして、私は固まった。
うぉいっ!!
コレ、今、自分が置いたヤツじゃん!!
サルマキスの水じゃん!!
ダメじゃん! 自分で飲んだら、全ッ然意味ナイしっ!!
まったくもー、バレンタインったら、あわてんぼサン☆
…………。
………………。
……………………。
…………いかん……頭がおかしくなってきた……
もっと前向きに検討しようではないか、バレンタイン。
いいか、落ち着くんだ。
コレは断じて犯罪ではないぞ?
別に媚薬だとかそんないかがわしいモノでもないのだからな!
私はただ、眉毛の君が喉が渇いたっぽいカンジになったら、たまたま持っていた美味しい水を親切でお渡しするだけなのだ。
決して、やましい気持ちなどではなく、眉毛の天使が喉が渇いていたから渡すのであって、それを飲むか飲まないかはミラクル眉毛アイドルの意思に委ねられているのであり、私は何も悪くない。
結果、側にいた私のことがもしかして、ひょっとしてす、す、す……す……き……になってしまったとしても仕方のないことであって……
「そうだ。仕方がないのだ。それに私はこの水を普通の水と間違えてしまったのかもしれないしな!」
そうさ! きっとそうだ!! このハーピーのバレンタインがそんな小細工を弄するわけがない! 間違ってしまったのなら、仕方ないッ!!
……よしっ! いざゆかんっ!!
私は麗しの眉毛……ラダマンティス様の執務室に顔を出すと、熱心に書類に目を通しておられた。
「お手伝いしましょうか」
「そうか。助かる」
任された書類の整理をしながら、ちらりと机の上に視線を投げるとそこにはコーヒーカップ。
ううーん。あれがあると喉が渇いても……
混入?
混入するか?
しかしそれでは確信犯になってしまう。
あくまで自然に、あくまでドジッ子風味にさりげなく悪気なく間、違、え、て! お渡しせねばならんのだ。
「……だ、大丈夫か、バレンタイン?」
「……エ!?」
「いや、なんか……息が荒いし目が血走っているから……」
「それは……あの……」
「疲れているなら、無理をせんでも……」
がーん!? わ、私のことを気遣って下さるのかっ!
私はなんて幸せ者なのだ。
一生ついて行きます、眉毛ンティス様!
「大丈夫です! それより喉が渇きませんか!?」
「……? いや? コーヒーあるし」
うぐ……やはりキサマか!
キサマが我が恋路の邪魔をすべく立ちはだかるのか…………コーヒーよっ!!
ならばこうしてくれる!!
「……お前が……のど渇いていたのか……それならそうと言ってくれれば、新しく運ばせたものを。何もその、人の飲みかけを飲み干さんでも……」
ハッ!? しまった、つい……
し、しかし、これは……で、伝説の……伝説のッ!
「カ……カカ……カカカカカカ……ッ、間接キッ……」
なんてハレンチなことをしてしまったんだー!!!!
咄嗟にとはいえ、私はなんということを!!
やはりこれは責任とって結婚せねば……!
「お、落ち着け、バレンタイン。本当に大丈夫か?!」
「ファーストキスです!!」
「えっ……そ、そうか……それは気の毒だったな。だが、何も回し飲みなどをキスのカテゴリに入れずとも……」
「責任を取らせて下さい!!」
机上に両手をついて叫んだ。
「……責任……」
「ハイ!!」
「いや、新しくコーヒーを頼むから大丈夫だ。過剰に構えるな。……すごい困る……」
「ハイ?」
「む、何でもない。お前の分も用意させよう」
お優しいラダマンティス様は咳払いをすると、呼び鈴に手を伸ばした。
だが私は素早くそれを取り上げると、替わりに空になったカップを持たせた。
も、もちろん、私が口をつけた部分は拭き取って、だぞ。
「どうぞ、お水です」
「……あ、ああ、どう……も?」
予定通りにうっかり間違えて例の水をカップに注ぐことに成功したぞ!
しかしラダマンティス様は私とカップの中を交互に見たあと、そっとソーサーの上に戻してしまったのだ!
な、何故……!?
「今は喉が渇いておらんのでな」
そうか……それなら仕方ない。
心なしかラダマンティス様の笑顔が引きつっているように見えるが、まぁ、気のせいだろう。
「ところでいつ喉がお渇きに?」
「……何故、そうまで気にする?」
「いえ。気にしてません」
「…………。」
いつ、喉がお渇きになるのだろう?
あと少しなのに。
あと少しで……
「喉渇きましたか?」
「まだだ」
「そろそろ渇きましたか」
「そうでもない」
「水分補給した方がよろしいかと」
「あとでする」
首尾よくカップに例の水を注いでから、どのくらいの時間が経っただろうか。
一向にラダマンティス様は水を飲んで下さらない。
じりじりしながら待っていると扉をノックする音が聞こえた。
入れというラダマンティス様の声に従い、姿を現したのはフログのゼーロス。
チッ、邪魔だな。私とラダマンティス様の二人きりのスィートな空間に……
カエルめ。早く報告済ませて出てゆけ。
睨み殺してやろうかと考えていると視界の隅でラダマンティス様がカップを口元まで運んでいるのが見えた。
思わず振り向くと動作はピタリと止まった。
「い……いかがされました?」
「この水……何が入っている?」
……ギクリ。
「カルシウムやマグネシウムなどのミネラル豊富な美味しい水です」
目をそらしながら、苦し紛れに応えるとラダマンティス様はうなずき、なんと……
「ほう、そうか。……ゼーロス。ご苦労だったな。この水を飲んでいけ」
エエエエエーッ!!?
そ、そんな……よりにもよってゼーロスなんかに!
「どうした、バレンタイン? 何か都合でも悪いのか?」
「それはラダマンティス様に用意した……」
「ただの水なのだろう?」
「……美味しい水です」
「だそうだ。よかったな、ゼーロス。ミネラル成分たっぷりだぞ」
「へぇ」なんて間抜けな返事をしてカップを受け取ったゼーロスは、私とラダマンティス様とカップを順番に見てから、
「まさか毒なんて入っていないでしょうねぇ?」
そんなことをつぶやいたのだ!
な、なんということだ。ひょっとして、このバレンタインはラダマンティス様から同様の疑いを掛けられていたのでは!?
「無礼な! このバレンタインがラダマンティス様にお渡しした水に毒など入るわけがなかろう!! ええい、よこせ!!」
ゼーロスにやるくらいなら、私が飲んでやる!
カエル野郎の手から、カップを強引に奪った私に待ったがかけられた。
「すまなかった、バレンタイン。あまりにお前が挙動不審たったもので、つい……。やはりそれは俺がいただこう」
椅子から立ち上がったラダマンティス様が私の手からカップを取り、その場で水を飲み干した。
……サルマキスの泉の水を!
「い、いえ、滅相もございません」
や、や、やったぞ……!
運命の女神は、私に微笑んだー!!
飲めば同性に惹かれるサルマキスの泉……
ラダマンティス様、これであの性悪女パンドラのことをキレイさっぱり忘れて下さいますね!?
そしてこの私と…………なんて、ちょっと気が早すぎるぞ、バレンタイン♪
別にコレは惚れ薬でもなければ、媚薬でもなく、同性に惹かれるようになるだけの水なのだから。
ここからが本当の勝負だ。
■□■
私はラダマンティス様の目に出来るだけ多く留まるために、毎日せっせと執務室へ足を運んでいた。
どれだけ私が貴方を想っているのか、どれだけ有能な男であるのか、どれだけ気の利く、便利な人間であるかことあるごとにアピールせねば!
戦闘でもあれば、カッコイイ姿を見ていただけるのだが、アテナ軍とは停戦状態だしな。
どっかゼウス軍あたりでも侵攻してこないかなぁ。
……わざわざ暗くて陰気な冥界欲しがる神もいないか。
などと考えていたら、ラダマンティス様からお声がかかった。
「なぁ、バレンタイン」
「ハッ! 何でございましょう」
背もたれに体重を預けたラダマンティス様はふぅ、とひとつ、切なげな響きをともなった溜息を零した。
「……カノンって、どう思う?」
「どう……とは?」
ま、まさか……
「あれぞ、男の中の男だと思わないか」
「……どうでございましょう……」
嫌な予感が……
「やはり男は強くなくてはな」
……う。
「女神のため、地上のため、正義のために、聖衣も纏わぬ生身でこのラダマンティスを相打ちに持ち込むなど……あれほどの男は他にいまい」
水の精霊サルマキスの住む泉は、飲めば同性に惹かれるようになる禁忌の水。
ただし、惚れ薬ではない。
「一度、ジェミニのカノンとゆっくり酒を酌み交わしてみたいものだな」
「……そ、そのときは是非、こ、このバレンタインも一緒に……」
「いや、二人きりでじっくり話がしたいのだ」
心なしか、ラダマンティス様の頬が染まっているような……?
ぱりーん。
……胸の奥で、私のハートがひび割れた音が響いた。
お、おのれ、ジェミニ……!
私のラダマンティス様を……許さんぞ。
自室に戻った私は、ギリシャ神話の本を棚から引っ張り出した。
呪ってるっ! 呪ってやるぞ!!
ギリシャ神話は恐るべき呪いの宝庫なんだからなっ!
見てろ、見てろよ、ジェミニ!!
……ぐすんっ。
そうだ。まずはヤツの周辺を探って弱みを握ってやる!
女々しい部分を集中的に調べ上げてレポートにまとめて提出してやるからなっ!!
覚悟しろ!!
[おしまい]