カノンさんは、すぐうなされる。
見かねて揺さぶると目を見開いてすんごい形相で飛び起きるから、ぶっちゃけ怖い。
そんなだから、互いの額をガツンとぶつけたり、酷いことになる。
まるでカタキにでも遭ったような勢いで俺の首をつかんで締め上げようとしたこともある。
急に揺さぶったりすると驚いてこうなるのかもしれないと思い、次からできるだけ穏やかに声だけかけることにした。幼子をあやすみたいに。
「大丈夫、心配ない。心配ないから……」
何の夢を見ているのかわからなかったし、何が大丈夫で何が心配ないのか意味不明だが、なんとか悪夢から引き上げてやりたかった。
「大丈夫、……いるよ。側にいるよ?」
手を彷徨わせて伸ばしてくるときは、驚かせないように声をかけながらそっと握ってやる。
薄目を開けたカノンさんは、ほっとしたような微かな笑みを浮かべて、またすぐに眠りの海に沈んでいく。
いつも、そう。
(なんだか……子供みたいだ)
朝に目覚めた本人は何も覚えていない様子だから、うなされているとか知らせたことはないけど。
今夜もまた始まった。
しかもご丁寧に歯軋りまで。
「カノンさん? 大丈夫か?」
小声でまずは声をかけてみる。
これで気がつけば、「なんでもない」とか言ってすぐに静かになるのだが。
「……いとめ……」
「うん?」
「…………聖闘士共め!」
……エ?
今、せいんとって言った?
俺は一瞬、身を堅くして眠るカノンさんの顔を見下ろした。
「出せ、ここから……俺を……誰だと……思っ…………俺はっ……」
俺は、俺が……なんだって?
「…………聖闘士と関係が……?」
かなり眉間のしわが深くなっている。
これは俺が理不尽にも殴られたり、首を絞められたりするパターンの夢ではないか。
起こすべきか?
しかし、続きが知りたい。
確かに聖闘士と言ったぞ、今。
海界に来てから1度もこの単語を聞いていない。
俺も聖闘士候補生でしたなんて、言ってないし。というか言えるはずもないけど。
小宇宙が使えることについては、最初から不思議な力を持っていましたで通していた。
それをまさか海将軍筆頭のこの人の口から……しかも寝言で憎々しげに出てくるなんて。
身を乗り出して、闇に慣れた目をこらす。
すると。
手が伸びてきて、顔面をつかまれた。
「いだだだだっ!!! いだい、いだい、いだいっ!!!」
「殺してや…………ん? ……なんだお前は」
「なんだじゃないだろ、アンタッ!?」
手がデカイわ!! 握力強過ぎだわ!! 顔が潰れる!! 傷が痛い!!
続きは聞けなかったが、またも理不尽に痛めつけられて、腹の立った俺はカノンの上にダイブしてやった。
「ぐえっ!? バカモノ! 突然、腹の上に乗るヤツがあるかっ!! 出るッ!! 内臓的なモンが口からハミ出る!!」
寝言が気にはなったが、どこかで一戦交えて敗北したのだろう。
まだその程度しか考えていなかった。このときは。
「クラーケン、お前、よくうなされてるぞ?」
「俺?」
しょっちゅううなされている当人から、ある日、そんなことを言われた。
「夕べはアンパンマンが襲ってくるとかどうとか」
「……ウソツキ」
「はははっ」
「んだよっ」
ムカつくなぁ、オッサンめっ!
俺がうなされるものか。
甘ったれのアンタとは違うんだと言い掛けて言葉を飲み込んだ。
年上を侮辱するのは、よくないな、うん。
知らないなら知らないままの方がいいこともある。
なんだか深刻なもの抱えてそうだし。
「……あれ?」
「どうした?」
「あ、でも何か……少し……夢を見たような気がしなくもない」
しっかりしなさい。我慢できるわね。
しっかりしなさい。我慢できるな?
絶対に死なせてなるものか!
守ってあげなさい。お兄ちゃんでしょ。
もしものときは頼むぞ。兄弟子なのだから。
いいか、死ぬなよ? お前は俺のために生きるのだ。
お返事は? 「はい」でしょ? お前は「はい」と言っていればいいの。
……キグナスは……氷河に継がせようと思っている。
今は氷河の方が下だが、いずれ逆転すると思っている。
おい……助けくらい……求めてみせろよ。
そうだ。思い出した。
恩師であり育ての親であり、俺にとって唯一無二の存在であるカミュに……手を振り払われる、夢。
シベリアの凍えた海に沈んでいきながら、手を伸ばすけれど、何もつかめない。
それから……しっかりしなさい、しっかりしなさいと繰り返し……
酷く悲しい夢だった。
でもその中に優しい声が混ざって聞こえるような……
「……忘れちまえ」
思い出しかけていた俺にカノンさんが言って、こつんと軽く頭に拳を当ててきた。
俺も素直にうなずいた。
そうさ。夢などくだらん。そんな夢を見たからといってどうだというのだ。
関係ない。
カミュは俺の手を……払ったりはしないし、しっかりしているから今更言われることもない。
俺はしっかりしている。
どこにいても一人でやっていける。
強いのだから。
■□■
腰についたロープはほとんどがカノンさんにつながっているが、日によっては、相手が他の七将軍の誰かになることもある。
また、多くの海将軍がそろっている場所では、逃亡不可能として外されている。
ロープでズルズル引きずられている姿を見ている海闘士の皆さんにぶすくれた顔のまま、なんとなく手を振ってみたら、いきなり爆笑された。
……我慢してたんだな、笑うのを。笑いたきゃ素直に笑えばいいものを。
「クラーケン様」だから遠慮してんだろうな。
笑いを我慢されているのが見え見えな方がビミョ~なんだが。
いっそ指でもさして笑ってくれた方がまだマシだっての。
ハァ。なんだかとっても不憫な俺。
「今日は私がザックのロープ持とう♪」
「そりゃ助かる。俺も年がら年中、子供のお守りは疲れるからな」
「俺は子供なんかじゃ……」
「よし、行くぞ、ザック!」
「ザ……ザックって……」
中では、特にイオさんが俺のロープを持ちたがる。
バイアンさんは弟認定されたんじゃないかと笑って言うが、俺はペット認定されてしまったのではないかと危惧している。
犬の散歩に行くみたいに嬉々としている辺りが非常に怪しい。
しかも勝手にヒトの名前を省略してるし。
この頃になるとあまり将軍の皆は俺をクラーケンと呼ばなくなってきた。
普通に名前で呼んでくる。
カノンさんだけはまだクラーケンだとか、ミニチュアダックスフントよろしく、ミニチュアクラーケンとか厭味な言い方をしてくるけど。
あとナマイキだって、皆、気安くすぐぶってくる。
ソレントさんの笛が一番痛い。
笛は叩くものじゃありません。
ムカツクから珊瑚を砕いたものを中にぎゅうぎゅう詰めておいたら、しこたま笛でぶん殴られた。
大事な物ならそんな風に扱わなきゃいいのに。
……ところでなんで俺が犯人ってわかったんだろ。
「そろそろここの生活には慣れたか?」
イオさんが人の良さそうな笑みを浮かべて聞いてきた。
「はぁ……まぁ……」
ロープにつながれた生活に慣れるというのもなんだけど、今のところ、特に問題はない。
いや、なくないか。
どうしような、この状況。
「もう帰るとかいうなよ。キミの帰る場所は此処なんだから」
「……そんなこと、言われましても……」
海界に閉じ込められて早2ヶ月が経とうとしていた。
穏やかに過ぎてゆく、天井に水がある不思議な光景の日々。
どうしたことか地上にいた頃の記憶に霞がかかってゆく一方で、この海界に懐かしさを覚える。
知らないはずの風景を知っていると感じたり、今まさに目の前で起こっている場面を以前に見たことがあるような気がしたり。
なんだかおかしい。
「イオさん、あの……」
「それからその敬語と敬称。いらないって。私たちは同志なんだぞ」
や、何の「同志」!? 志、同じくした覚えないし。
……違うって最初から言っているのに、全然通じてない。
「でも年上だから……」
あんまり知らない人だし、と言い掛けてそれはやめた。
このヒト、すごいショック受けたような顔するから。
「うわ、堅ァー! カッタカタ!! いいから、敬語と敬称、禁止!」
「でも」
「でもじゃないっ。年上の命令はゼッタイ!」
「エェ~!?」
ズルイ。なんて理不尽な。
イオさんだって年上に逆らいまくりじゃん。
なんて思ったが口には出さず、渋々、従うことにする。
そうでないとビッグトルネードとか言いながら、羽交い絞めにされてグルングルン振り回されの刑に処されるから。
他の将軍たちにも無遠慮に首根っこつかまれたり、持ち上げられたり……酷い扱いだ。
足が届かなくてジタバタ暴れても抜け出せないとか。
そんな俺を見て周りが笑うとか。
いつも「兄」としての立場にいた俺には、経験のない屈辱である。
俺はイジラレキャラじゃないっつーの。
だけど、平和だ。ぬるま湯だ。
そうやって、一日一日、海に同化していく俺。
あるわけないけど、地上の事を忘れていってしまいそうで、なんだか少し、心配になる。
海界にきても訓練は怠らなかった。
別にサボるつもりは初めからなかったけど、カノンさ……カノンがいつも稽古をつけてくるから丁度よかった。
(…………カノンって……誰かに似てる? 俺の……知っている、誰か……)
他の将軍たちも同じで訓練は欠かさない。
ここの人たちは何のために戦うのだろう?
聖闘士とは太古の昔から争ってきた宿敵と教わってきたが、この人たちと俺が戦うなんて想像がつかない。
「おい、ピーマン残すなよ、ザック」
「……ピーマンは食べ物じゃないと思います。俺的にプラスチック類だと……」
「ンなワケあるかっ! そうやって残すから大きくならねんだぞ!? ここじゃ野菜は貴重なんだから心して食えっ」
「そういうカーサだって小さいじゃん。それに俺まだ育ち盛りだから。カーサと違って」
「こんガキャ!!」
「……てっ!? もーっ、なんですぐぶつんだよっ!?」
(なんだかんだで、俺は此処の人たちが……好きなんだろうな……たぶん)
そもそも昔敵だったからといって、現在も敵に回るとは限らないのではなかろうか?
戦争を始めるのはいつも上の人だ。
俺たちで言うところの、アテナやポセイドンといった神々。
彼らが争うから俺たちも争うことになる。
地上と海界……どちらにも身を置いた俺がここにいることで、もしもの場合に双方の争いの回避をする役に立てるかもしれない。
そんな風に考えるようになったあるとき、腰のロープが外された。
「……いいのか?」
「……つながれていたかったか?」
切られたロープの先端を眺めて俺が尋ねたら、カノンがニヤリと笑った。
「んなワケないだろ、バカじゃないの」
「……っとに可愛くねーな、お前は」
「可愛いなんて思われたくありませんから」
カノンと俺を繋いでいたロープがなくなって、俺は海魔人神殿を住居として与えられた。
整えられた、大き過ぎるベッドの上に腰掛けて、足をぶらつかせる。
しんとして、当たり前だけど何の気配もしない。
(カノンの気配が、しない)
「なんか…………変なの」
切られたばかりの腰のロープが足に絡んできたので、指でつまんで目の前まで持ち上げた。
(なんだか……広くて寒いな、ここは)
そんなことを考えていたら…………なんだか急に、息苦しくなってきた。
「あ、あれ? 息が……」
……上手く吸えない。
喉をかきむしる。
久しぶりに、きた。
ときどき、こうなる。
昔、もっと小さい頃はよくあったけど、いつの間にかほとんどなくなっていたのに。
最近では、カミュと聖域からの使者が話しているのを聞いたときに一度。
頻度はそのくらいに下がっていた。
(くそっ、苦しいな)
喉に何かが詰まった、嫌なカンジ。
理由はよくわからないが、ふいにこんな風になるんだ。
「はっ、はっ……」
どこか悪いわけじゃない。
別に病気というわけでなく、ただたまに喉がつかえるだけ。
(……溺れそう)
背中を丸めて自身を落ち着かせようと息を整える。
パニックになってはダメだ。
コレは別になんでもないのだから。
忘れた頃に戻っている。
気にすると余計に苦しくなるから、できるだけ意識をそらして……
(ん? なにか……いる?)
床に視線を落したままでいると視界の端に黒いものが。
「……誰だ?」
声をかけたが、返答はない。
一人でいるときにしか見えないのは、お前が暗いところが怖いから。
トモダチだと思ってしまったのは、お前が寂しかったから。
お前にはもう不要になったから、見えなくなったんだ。
「……こっちに……おいで?」
“ソレ”だ。
直感的にわかった。
子供の頃に見えていた、“アレ”。
海に落ちたときにも見えていた、アレ。
名前はわからない。
ただ、ソレとかアレとか呼んでいた……
ソレは、いつも暗闇の中にいる。
闇の中から、そっとこちら側を覗く。
けれど、こちらから視ようとすると途端に見えなくなる。
ソレは、あちこちにいる。そこにも。ここにも。あそこにも。
人が踏み込まない領域から、こちらを見てる。
他の人には見えない“ソレ”のおかげでもう、俺は暗闇を恐れない。
闇に手を差し伸べることが出来る。
黒に混ざって夜と踊ることが出来る。
「……出ておいで?」
寂しがらずに。
側に……傍に、おいで?
要らなくない、要らなくなんて、ならないよ。
嫌いになんてなったりしない……
だから、逃げないで、泣かないで。
……行かないで。
……………………。
気がついたら、真っ暗だった。
そして、泣いていた。
ベッドの端に座っていたつもりが、きちんと真ん中に横たわっていて、ついでに上に毛布もかかっていた。
……誰かが入ってきたのだ。
(ちゃんと靴も脱いであるし……自分でやったんじゃない、な)
嫌だな、みっともない。
泣いていたのを見られただろうか。
(サイアク……勝手に入ってくんなよ)
途切れて散らばっている記憶を意識の中でかき集めると頭上に手を乗せられたような感覚が蘇った。
あれが夢の中の出来事だったのか、それとも自分を横たえさせた人物のものだったのか……いや、やはり現実だ。だって……
「……カミュ?」
微かに残った小宇宙の気配。
つい先ほどまで、ここにいたであろう人物の。
上半身を起こして真っ暗な部屋の中を見回す。
カミュであるはずがない。
しかしどこか似た…………
「……ああ……」
しまった。
知らなければそれで済んだのに。
突然に、解ってしまった。
訓練しているときにしょっちゅう、違和感を感じていた、あの小宇宙。
冷や水を浴びせられた気持ちになって、震え上がる。
コレは。この気配は。
海闘士とは異なる加護を受けた聖闘士の小宇宙だ!
「そんな……ばかな……」
(いっ、息……息が……あが……)
苦しい。
呼吸が出来ない。
しっかりしろ。
冷静になれ。
落ち着け、考えろ。
まだ何もない。
俺は喉をかきむしって、酸素を求めた。
「……カノンッ! カノン、アンタ……」
12年前、聖域である事件が起こった。
光臨した女神を殺害しようとした逆賊が……よりにもよって英雄視されていた射手座の黄金聖闘士だった。
耳の奥で、いつかのカミュの声がする。
「……その直前、双子座の黄金聖闘士は行方をくらましている。宿敵・海皇ポセイドンの動向を探る任務ということだが、教皇がその報告を受け取る以外に、その後、彼を見た者は十二宮に一人もいないのだ。よいか、氷河、アイザック。もしも……」
もしもその男がコンタクトを取ってきたら、必ず私に知らせろ。
そう、あの人は言った。
(年齢はカミュより10歳近く上。細面だが、がっちりとした長身の体躯。海の色を映したような青い髪……。比類なき強大な小宇宙……名前は……)
心臓がこれ以上はないというほど速度を上げている。
冷たい汗が噴出した。
「な、名前は……双子座……ジェミニの……」
震える手を口元に持って行き、親指の爪を噛む。
ガリガリガリガリ。
(……考えろ、アイザック)
呼吸が苦しい。
(落ち着け。考えるんだ)
苦しい。息の仕方を忘れてしまう。
(“彼”は何をしようとしている?)
ガリガリガリガリ。
(ああ、ダメだ。また変な癖が……爪を噛むなってカミュにうるさく言われてたのに……いや、そうじゃない、今気にするのは爪じゃなくて呼吸じゃなくて……彼がたぶん、その男で……何をしようとしているのか……聖闘士を恨んでいる彼がしたいことといえば……! でも何で恨んでいるのだろう、夢に見るほどに)
頭がおかしくなりそうだ。
なんでこんなに津波みたいに色んなことが次々に押し寄せてくるんだ。
頭を整理しなくちゃ。
落ち着け、しっかりしろ。
しっかり、しっかり、しっかり、しっかり、しっかり!!!
お前はしっかりしていなければならないだろう、取り乱したりしてはいけないだろう、なぁ、アイザック。
冷静に、冷静に、冷静に!。
ガリガリ……してるばあいじゃない。
こんな、爪があるから噛んでしまうんだ、こんなのッ!
「……っ痛い!!」
右手に激痛が走って我に返る。
ぱたぱたと血がシーツを汚す。
……爪を剥がしてしまった。
が。
一気に頭が冷えた。
「……よし」
血だらけになった親指を押さえて呟いた。
何を取り乱していたのだろう。
事実を知れば、あとは次にどうするかを考えればいいだけだ。
……いつの間にか、呼吸も戻った。
忌々しい。どうして俺はすぐにこうなるんだろう。面倒くさいな。
「さて」
(このことは他の将軍に知られてはならない。自称・海龍であるあの人を連れて、速やかに此処を去らねば……。だが、うなされている様子からして、恐らく聖闘士を恨んでいるであろうあの人が簡単に説得に応じるとも思えない。それどころか口封じで逆に俺が殺される)
彼は聖闘士にとって敵対勢力である海闘士を手中に収めて……戦を引き起こそうとしている。
「だよな?」
俺は俺に確認してうなずく。
あの男に真正面から挑んではダメだ。
絶対に敵わない。まず間違いなく、消される。
カミュに……聖闘士に選ばれなかった俺とて、そのくらいはわかるつもりだ。
相手と自分の力量の格差くらい。
「……ならば、小賢しくいかせてもらう」
(俺はアンタを連れて地上へ戻らねばならん。こうなったら、何が何でも、だ)
カノンに戦争なんて起こさせない。
親切にしてくれる海界の人たちを巻き込むのだけは許されない。
カノンが聖闘士であるなら、俺の身内と同じこと。
身内が大変なことをしでかさないうちに何とか穏便に終わらせなければ。