……面白くない。
実に面白くない。
感情任せに拳を柱に叩きつけて崩壊させ、始末書を書く羽目になった。
黄金聖闘士ともあろう者が力の加減もせずに物に当たるとは……
私もまだまだ修行が足りないとみえる。
今現在も机に向かいながら、感情をコントロールできずに苛立つ私がいた。
「ふぅ」
考えがまとまらず、始末書ごときに時間ばかり取られてしまう。
決まりきった文を完成させるのに、一体、何枚の紙を無駄にしているやら。
それもこれも、
(……ミロのせいだ)
一昨日、私が十二宮を下りていると見たくもない光景に出くわしてしまった。
双児宮の出口に立つ、二人。
ミロはカノンから手渡された上着にその場で袖を通し、何やら楽しげに?会話をしていた。
(なんだあのブカブカした上着は?! まるで子供が大人のお下がりを着ているようではないか。みっともない……)
わざと足音高らかに階段を踏み進めれば、相変わらずの敵意を瞳に宿したカノンが先に気づき、つられて友人ミロが私の存在を認める。
そこまでは特に問題なかったのだが。
次の瞬間、私は凍りつく羽目になる。
カノンはミロを呼びつけると唐突に、何の前触れもなく、彼の唇を奪ってみせたのだ。
それは明らかに私への当て付けだった。
行為の一瞬前にかち合った視線がそう、告げていた。
これを目にした途端に頭の中が真っ白に塗り潰される。
思考も身体も動かなくなり、まるでその場に縫い付けられたようだ。
呆然とする私を無視して、行為は続く。
外聞を気にしてか、ミロが離れようとするがすぐに引き戻されて再び長い口付けを受ける。
柔らかくウェーブのかかった金色の髪にカノンの指が無遠慮に潜り込んだ。
自分のものであると主張するかのごとく。
二人がようやく離れるとカノンの不敵な笑みがこちらに向けられた。
それをきっかけとして呪縛から逃れた私は、大きく息を吸い込み、自由を取り戻した足を踏み出す。
(貴様などの挑発に乗ってなるものか)
歯噛みして一度は睨み返した目を伏せる。
ヤツと同じフィールドに立ってはならない。
間違ってもペースを握られるわけにはいかない。
冷静になるのだ。
冷静に、冷静に。
「……邪魔をしたな」
いつも通りにできたかどうかわからないが、とにかく前だけを向き、二人の横を通り過ぎる。
たった今、何が起きている最中なのか、動き出した頭の中で整理をしながら。
……と。
それだけのことだったのだ。
他人のキスを目撃した。
言葉にしてみれば、こんな一言で終わってしまう。
たったそれだけのことで、この2日間、ずっと苛つきが治まらない。
タンタンと右足は忙しく床を打つ。
一向に進まない書類。
ふと気づけば同じシーンを頭の中で反芻している。
幼馴染と、気に入らない男の口付けを。
「……まったく」
指先でペンをクルクルと回し、放り出す。
何がこれほどに私の神経を逆撫でするのか。
(考えるまでもない)
あの男は危険だと再三注意を促したにも関わらず、囚われてしまった警戒心薄な友人に腹を立てているのだ。
(もう知らん。後で泣きついてきても知らないからな)
そうは思ってみたものの、実はミロに泣きつかれたことなど記憶の中にほとんどない。
彼は愚直なまでに強者であろうとし、弱みを見せたがらず、本音もなかなか口にしないのだ。
「……困った奴だ」
小さく口にしたときだ。
ノックと同時に弟子が飛び込んできた。
「カミュ!」
「どうした、氷河? 騒がしいな」
ちょうどいいときに外から戻ってきたな。
コーヒーでも淹れて貰おう。
一息入れればきっと落ち着きを取り戻すだろうと考えた私に弟子はとんでもない爆弾発言をぶつけてきた。
「ミロにフラレたって本当ですか、我が師カミュ!!」
「…………。」
唐突に放たれた不名誉この上ない言葉に私はぽかんと口を開けたまま、深刻な表情の弟子を見つめる。
この沈黙がどうやら肯定ととられたらしく、氷河は大袈裟に嘆き床に崩れた。
「……カミュ……それで昨日、戻ってきてから様子がおかしかったのですね?」
「……様子が? 私のか?」
外からわかるほど私は衝撃を受けていたのだろうか?
いや、確かに苛立ちは自覚しているが、いくらなんでもそこまでは……
そもそもフラレてなぞいない。
フラレるも何も、そのような関係ですらない。
「だって戻ってから、ずっとボンヤリしていたし、声をかけても返事がなかったり、トンチンカンな返答してきたりするし。それに……パジャマ裏返しに着るし、歯磨き粉と洗顔フォーム間違えるし!」
「!!」
実はもう昼間だというのに今もまだ着替えていない。
ということは……?
顎を引いて首から下を見てみれば。
ナルホド、縫い目とタグが外に露出している。
「……あ~……ん~…………良く気づいたな、氷河よ!」
「俺を試したんだ的に言っても無理があります、我が師カミュ!」
……む。いかん。
ごまかせなんだ。
「悔しいですよ、俺! カミュがしっかりしててくれないから……っ! 有り金全部巻き上げられちゃって……!!」
……?? 金?
「……待て、氷河よ。私がフラレるのとお前の小遣いの行方に因果関係を見出せないのだが?」
「ミロがどちらを選ぶか、皆で賭けてたんですっ」
恨みがましい目で私を睨み付ける氷河。
……なんで私がこんな仕打ちを受けねばならんのか、さっぱり理解できん。
「皆って、星矢たちか?」
「違いますよ、デスマスクとかアフロディーテとか……」
あの二人か。
少年の少ない小遣いを面白半分に巻き上げる小悪党は。
私の不名誉な嘘まででっち上げて、まったく。
「あとシュラと」
「!? シュラも!??」
い、いや、仕方あるまい。
シュラは単品では至極マトモな先輩だが、あの二人とつるんだが最後、悪ノリするは必至。
「アイオロスとサガと……」
……あの二人もわかる気がする……
それにサガとしては実弟を応援したい気持ちもあるだろうしな。
「それから」
「まだいるのか」
「ムウとアルデバランとシャカとアイオリアかな」
……おい。
当事者?を抜いたほぼ全員の黄金ではないか!
まったく。ヤツラめ。
「ちなみにカミュが勝つ方に賭けたのは、俺とアイオリアだけです」
「…………そこに真実などないが、地味に傷つくな…………」
みながどのように私を見ているかがよーくわかった。
アイオリア。
お前はいいヤツだ。
「ちなみにアイオリアは、カミュもカノンもダメだけど、消去法でいくとまぁ、カミュかなって。でも両方フッた方がミロのためにはいいのではって付け加えていたけど」
…………さっきの「いいヤツ」は取り消しだ、アイオリア。
「他の人たちは、遅かれ早かれこうなると思ったとか言ってましたが、俺はちゃんと信じてましたよ! カミュが勝つって!! なのに……! うわ~んっ! カミュの負け犬~!!! 俺の今月の小遣いどうしてくれるんですか~!?」
勝手に誤解して、勝手に賭けに挑んで、勝手に小遣い摩ったクセして師匠を負け犬呼ばわりとはいい度胸だ、我が弟子よ。
後で覚えていろ。
「あのなぁ、氷河。言っておくが、私はミロにフラレた覚えはないぞ?」
不名誉極まりない誤解を解こうとする私に、ふらりと立ち上がった氷河は哀れんだ目を向けて一言。
「カミュ……空気読めないんですね……」
な、なにぃ!?
そ、それはつまり……
私はフラレたのに、フラレたのだという自覚がない……と。
そう言いたいのか、我が弟子よ!?
「なんかおかしいとは薄々思っていたんですよ、俺。だって、全然ミロが宝瓶宮に顔を見せに来てくれないじゃないですか。カミュはこんなものだなんて言っていたけど、やっぱり変ですよ。たまーに来るとかならわかるけど、一切、来なかったじゃないですか、一切! カミュが目覚めるまではあんなに献身的に看病してくれていたし、リハビリにも熱心に付き合ってくれていたじゃないですか。それなのに急に来なくなるなんて、気づかない方がどうかしてますって」
看病、だと?
台詞の中にこれまで知らなかった事実が含まれており、私は片眉を引き上げた。
「……ナニ? お前がずっと介抱していてくれたのではなかったのか」
聞けばあっさりと氷河は首を横に振る。
「違いますよ。許可書がない限り、俺は十二宮に留まっていられませんから。昼は俺、夜はミロと交代で付き添いしてました」
私の許可を経て現在は宝瓶宮に寝泊りしている氷河との会話から、今頃になって知った。
さらに、
「ミロに何度、許可書にサイン下さいってお願いしても突っぱねられるだけで、最初は不満だったんです。でも、食って掛かったら、俺に許可をやったら、きっと俺は睡眠も取らずにずっとカミュの傍に付き添って結局、身体を壊すからダメって言われて……ああ、そうかって。俺のことも心配してくれていたんですよね」
腕を組んで頷き氷河は独り納得する。
「俺の聖衣修復のために血をくれたのもミロだし。世話になりっぱなしですよ、ホント」
「!? なんだ、その話は? 聞いてないぞ」
氷河が言うにはいわゆる「サガの乱」で傷ついて死んだ聖衣を蘇らせるために血を提供してくれたのもミロだったという。
私という保護者を失い、アイザックという旧友を失くし、傷ついた少年を支えて寄り添ってくれていたのも、私の友人として遺された弟子を放っておくことのできなかったミロだ。
これらの厚意に対して、私は何一つ礼をしていない。
知らなかったとはいえ、もう少し想像力を働かせてしかるべきだった。
彼は自分の厚意をわざわざ言葉に乗せたりしない。
そんなことはとうの昔から知っていた筈だったのに。
「あ?! カミュ? どこへ?」
「……天蝎宮に行ってくる」
今更で少々気恥ずかしいが、流しておいてよい内容ではない。
礼を欠いていたことに対しての謝罪も必要だろう。
「カノンから取り戻しに行くんですね?! あと俺の小遣い!」
「……違うわ、馬鹿者」
氷河が期待に満ち満ちた瞳で見つめてくるが、彼の小遣いを取り返しに行くのはお門違いであるし、ミロがカノンとくっついたというのなら、割って入るのもお門違いだ。
「待って下さい!!」
「なんだ? まだ何かあるのか?」
「せめてその裏返しパシャマをなんとかしてから外出して下さいよ!?」
「……う、うむ。わかっている」
……おっと、そうだった。
言われねばそのまま出るところであった。
危ない、危ない。
よくぞ気がついた、氷河よ。
回れ右をして部屋に戻り、普段着に着替える。
「今度は裏返しではあるまいな? ……うん、よし」
このカミュが二度も同じ過ちを繰り返すとは到底思えないが、一応、念のため、確認をしてから部屋を出た。
(しかし……声をかけづらいな。気にしているのは私だけであろうか)
またしてもカノンとミロの口付けの場面が脳裏をよぎり、階段の途中で立ち止まる。
私亡き後、私の弟子を目にかけてくれた友。
私が蘇った後も目を覚まさぬ私を看てくれていた友。
その間にも氷河を気遣い……
けれど私が目覚めると距離を取っていった友。
(私が眠っている間に何があったのだろう?)
……カノンと。
世界を海の底に沈めようとした、非道の男。
アイザックを死に導いた男。
双子座ゆえの影を背負って生まれ、その存在を抹消された。
神のごとく人々に崇められた双子の兄サガとは正反対に悪行ばかりを好み、実兄の手により水牢に幽閉される……
「……ふむ」
情深い心の持ち主であるミロが気にかけるのもわからなくはない。
あの男にしてみても、気にかけてくれる人間に懐くのは当然といえば当然かもしれない。
双子座の悲劇がヤツの心を砕き、悪に走らせた。
感情的にはまだヤツを許せる気がしないが、理屈では承知している。
あの男もまた被害者であることを。
(やはり、同情から恋に発展したと考えるべきだろうな)
ミロは独りでいる者を放置しておけない人間だ。
人見知りの私が始めて聖域に連れられてきたときもそうだ。
まず声をかけて親しくしてくれたのは彼で、私が彼に心を開放するのにそう時間はかからなかった。
異性であれば、きっとそのまま恋に落ちていたに違いない。
……実際に当時、私は密かに心をときめかせていたこともある。
金髪の巻き毛が愛らしい、その子に。
気の強そうな外見に反して、とても気配りの良く出来た優しい少年。
品行方正だが、少し抜けていて完璧でないところも私を安心させた。
常に多くの友人に囲まれていたにかかわらず、根暗でこじんまりとしていた私に特別な親切を向けてくれていたことが誇らしかったと記憶している。
喜怒哀楽を素直に表現し、万華鏡のように変わる表情。
それでいて心の奥底はなかなか見せてくれないミステリアスさもまた魅力のひとつだった。
(……そんなこと……ずっと忘れていたな)
時が経つにつれ、共に居ることが当たり前となり、眩しいほどだった魅力も次第に色褪せていった。
改めて振り返れば、他者を思いやる優しさも、感情の起伏も、生真面目で融通の利かない頑固さも、きらめく黄金の髪の美しさも今だって変わっていないというのに。
「ミロ、いるか?」
物思いにふけっている間に目指す天蝎宮に到着した。
記憶の中では一度も鍵がかかっていたことのない、警戒心ゼロな扉を開いて声をかける。
「……いないのか?」
返事がなかったが、そのまま踏み入った。
リビングを横切り、顔だけ出して台所にはいないことを確かめ、他の部屋を当たってみる。
最後に寝室だが……
「まさかまだ寝ているということはあるまい。すると留守か。ふむ……いるような気がしたのだがな」
いなくて良かったような、よくなかったような。
例の事件?が気まずいが、礼は早くに伝えるに越したことはない。
両極端の思いが交差する。
このままリビングで帰りを待たせてもらおうかどうかを考えていると寝室のドアの向こうで微かに生き物の気配を感じた。
「……いるのか? 私だ。カミュだ。……邪魔するぞ?」
ノックをして声をかけたが返事がない。
気のせいだったろうか。
細くドアを開くと……いた。
毛布が丸く盛り上がっている。
「……なんだ、眠っているのか?」
部屋に踏み込んで近づく。
「ミロ?」
さっきの気配はおそらく寝返りをうったときに生じたものに違いない。
しかし日が高い内から横たわっているとは……
(あ。シエスタ)
ギリシャにはシエスタという昼寝の習慣がある。
その時間に訪問は失礼なのだと聞いたことがあったが、あまりミロが昼寝をしているのを見かけたことがなかったので頭になかった。
「仕方ない。起きるまで待たせてもらうか」
一度戻ることも検討したが、またすれ違いになってもやっかいだ。
リビングで新聞でも読みながらゆるりと待とう。
そう決めて離れようとしたとき、ミロが寝返りを打った。
真っ赤な顔をして苦しそうに身をよじる。
「おい」
これはシエスタなんかじゃない。
具合が悪いのではないか。
汗で張り付いた前髪を払いのけ、額に手を当てると酷い熱だった。
「……カミュ?」
触られて気がついたのかミロが薄っすらと瞼を上げた。
海に似た青い瞳は、熱に浮かされた涙で滲んでいる。
「……な、ワケないな……」
微かに唇が動き、再び瞼が硬く閉じられる。
「……何故、“な、ワケがない”のだ。私だ、ミロ。大丈夫か?」
しかし今度は返答がない。
再び寝入ってしまったのだろう。
「具合が悪ければ、助けを呼べばよいものを……」
カノンは何をやっているのだ、カノンは。
恋人が苦しんでいるというのに側についていないなどと。
憤りを感じながら、額に当てた手のひらから冷気を放出する。
少しでもミロが楽になるように。