カノンは、生まれてから15年もの間、無き者として扱われてきたという特殊経歴の持ち主だ。
一番多感な時期に他人との接触が極端に少なかったせいなのか、付き合っていく上での常識的な距離感がわからない様子。
ベタベタと無闇やたら人に触れたがり、ときにこちらがギョッとしてしまうほど、スキンシップ過剰で異様なまでの甘えたがりである。
かくいう俺も周りから「末っ子気質」とよく言われてしまうだけあって、じゃれ合いは結構好きだ。
不幸な星の元に生まれてしまったカノンとは逆で子供の頃の俺は、親兄弟がいなくとも寂しい想いをすることなく、この十二宮で年上たちに可愛がられて育った。
両手を伸ばして見せれば、何も言わずとも抱き上げてもらえたし、いけないことをすれば、叱ってもらえた。いつだって無償の愛を与えられていたと思う。
そんなだから、大人になった今でも遠くに友人の姿を見かけるや走り寄って飛びついたり、外でも平気でやってしまう。
こんなところが末っ子気質と揶揄されるゆえんなのだろうが、俺としては割りと自分は兄貴気質なのではないか、と思うのだ。
だって、今もホラ、甘えたな友人がぐんにゃり、俺に圧し掛かってきても、全然気にならない。
先程、ソファに座ってペット雑誌をめくっていたら、カノンが隣に座ってきた。
「なんだこの犬、間抜けでメチャクチャ可愛いぞ。助けて、萌え死ぬっvV」
「……犬が好きなのか?」
「猫も好きだけどなっ♪」
最初は大人しく、一緒に雑誌を横から覗いているカノンだったが、飽きてきたのかひょいと俺の手から本を取り上げて、自分の体を倒してきた。
壊れた双児宮の修繕が終わるまで、この天蠍宮に生活の拠点を置いているカノンはいつもこんなカンジだ。
「も~! 俺の邪魔ばっかしてからにっ」
出た。
構ってちゃん、発動。
こうなると大人しく放っておいてはくれない。
降参して押されるままにソファに仰向けになるとカノンはさらに上にまたがってきた。
「そういや犬みたいだな、カノンは」
「……犬? 俺が?」
「だって、すぐ遊んで遊んでってくるじゃんか」
「……それは……あー……まぁ」
「大型犬……そうだな、ん~と……あれだ、レトリバー!」
でっかくっておとなしくて人懐っこくて、お利口さんで目がくりっとして穏やかそうな顔つきの、アレ!
子供の頃、大型犬とのお散歩に憧れて、飼いたくてしょうがなかった。
サガに泣いて暴れて頼んでみたけど、十二宮は動物厳禁!
もう羊や牛やライオンがいるからダメと素気無く断られた。
「レトリバーってあの温和な犬種だろ? 盲導犬に多い……」
「そう、それ」
「俺はどちらかと言えば、オオカミとか……犬ならせめてシェパードやドーベルマンとかそこらじゃないのか?」
「外見はそうかもしれんが、この人懐っこさはレトリバーだろっ♪」
両手を伸ばし、カノンの深い海色の髪を思う存分、ぐしゃぐしゃにかき回してやった。
「人懐こい……? ……ああ、うん……そう、そうね。はいはい」
ブツブツ何か口の中で呟いていたカノンは、一度人の悪い笑みを浮かべたと思ったら、「わんっ」なんて言って、ボサボサになった頭を俺の首にこすりつけてきた。
「あははっ、くすぐったい! マジで犬だーっ♪」
「わんわんっ」
せっまいソファーに転がってじゃれているのが、28歳と20歳のウスラデカイ男なんだから、第三者から見たら、相当アホい場面なんだろうな、コレ。
でも楽しければいい。
「……痛って!? こらぁ、なんで噛むんだよっ」
「ワンコなので、甘噛みです」
首筋に小さく痛みが走って文句を言ったら、しれっと得意顔。
「はぁ!? なんだそれ……あっ、ばか、噛むなっ! 痛くすぐったっ……ダメダメ、ダメだっつの! ひゃはははっ」
ふざけて肩やわき腹を甘噛みされてジタバタと足をばたつかせたが、笑ってしまって力が入らず、大型犬カノわんを押しのけられない。
「……ひっ、やぁっ!?」
最後に耳たぶを噛まれて、思わず妙な声を発してしまった。
ナニ、今の。今、どっから声出たんだ、俺!?
「……くっ、悪ノリし過ぎだ、このヤロッ」
ぽかりと頭を軽く叩く。
「悪いコに首輪でもつけてつないでおくか?」
しかし悪びれた様子もなく、鼻先で笑ったカノンはぐっと顔を寄せてきた。
「……それで大人しくなるならな」
……って、ちょ……顔、顔っ!
顔、近過ぎ……っ!!
コイツはいつもこんなだ。
何にしろ、距離が近い。
これにはなかなか慣れなくて、毎回どぎまぎしてしまう。
普通の人はこんなに顔を寄せたりしないっていっつも言ってんのに!
……しかも、だ。
「大人しくなるかは保障できないが、お前に首輪でつながれるのは悪くないな」
真顔でこんなことを言ってくる。
「は……はは、なんだそれ?」
……こういうところもちょっと……いや、だいぶ、かなり。
理解に苦しむ。
ここは笑うところなのか、ツッコミに徹するべきか、自分も真顔でボケ返すのがいいのか。
わ、わからん……。
相手の意図がまったく読めない。解釈に困る。
ていうか、そろそろ上からどいてもらいたい。
この空気が苦手だ。
息が詰まる。心拍数が上がる。
今の今までふざけていたかと思うと、前触れもなく急に、こんな空気になってしまうときがある。
いつもではないが、少なくもない。
大抵、俺が反応に困っているとカノンの方から、話題を変えて離れてくれるのだが……だが……? ……だが……
(……今日、長くね?)
依然として視界がカノンで占領されたままだ。
(うわ……もー、勘弁っ)
目のやり場に困って、ぎこちなく目を横に向ける。
向けた方向には、ガラステーブル。その向こうにTVの暗い画面が。
そこに俺と俺の上に跨った形のカノンがぼんやり映っていた。
見るつもりなくても、TVは点けておけば良かったと小さく後悔した。
音だ。せめて音が欲しい。
音までないと間がもたない。
今、聞こえるのは時計の音と俺の心臓の音だけ。
余計にこの空間を窮屈にさせる。
もうっ! 何なんだ、これ!? なんで俺が困らなくてはならないんだ、理不尽だ!
カノンがっ、男の目から見てもカッコイイっていうのが良くないんだ!
きっとそうだ!
これが別の友人だったら、こんなに息が詰まらないに違いない。
コイツと並べば、芸能人だか俳優だか……そんな連中とて色褪せることだろう。
そういう顔なんだ、この間近にあるのは。
緊張するなって方が無理だ。
例え強烈な甘えたさんで、ついさっきまでワンなんて吼えてアホな遊びに興じていても!
普段は顔なんて気にならない俺だが、こんなに近いとさすがに……
いや、待てよ。
他の友人……?
いや、友人じゃなくてもいいなら、例えばあれだ。
氷河のトモダチの……誰だっけ、ホラ、確か……青銅の……蛇使い座の……いや、違った、落ち着け、水蛇座だ!
……市ッ!!!
あの顔だったら?
……名状し難いあの顔がコレだったら……
…………コワッ! タスケテ無理ッ!
うっ、うんっ! やっぱり至近距離だからダメなだけっぽくね?
あの顔で想像してみたが、ダメなものはダメだ。
よ、よかった。なんかドキドキするし、俺、カノンのこと意識し過ぎかと心配になっ……
「……今、誰か別のヤツのこと、考えたろ?」
低い声が降ってきて、俺は現実逃避にも近い思考を止めた。
「こっち向けよ」
……なんか……苛立ってないか、コイツ……?
けど怒る理由はないよな、今までただじゃれついていただけだし、ご機嫌だったはずだ。
それでも恐る恐る目線を元に戻した……ら。
「わんっ♪」
ぺろりと唇をなめられた。
………………瞬間、頭が真っ白になった。
カノンはけたたましく笑い出し、俺の上からどいても、俺は動けずにそのままだった。
……こっ……、
…………このヤロウ。
今日のところは俺の敗北だ。
だがっ!
………………そのうち、絶ッッッ対! お前の度肝抜くような仕返ししてやるからなっ!
「……覚えとけっ!!!」
フリーズしていた俺が我に帰って、叫んだ。
仕掛けたイタズラが成功したカノンは、「ご機嫌」からさらに上を行く、「上機嫌」に昇格していた。
頭にきた俺は下に落ちていた雑誌をつかんでその顔に投げつけてやった。
……そんな俺とカノンのゆる~い毎日。