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星の墓場

星矢再熱。腐です。逃げて! もはや脳内病気の残念賞。お友達募集中(∀`*ゞ)エヘヘ

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オペラ座の怪人:6

3,
 過剰なまでの自信。
 それを裏付ける実力と誰もが舌を巻くストイックさ。
 親しい者の側では歳相応に明るく無邪気な少年は、ひとたび戦場に立てば、生死を問う地獄の裁判官へと変貌する。
 蠍座を象る15の星をたどり、敵の身体を穿つ、必殺の毒牙。
 針の穴ほどの傷跡からは想像もつかないほどの激痛が全身を襲う。
 わずか数ミリにも満たない傷は、時間の経過と共に大きく口を開き、大量の血液を失わせる。
 気が狂わんばかりの痛みにただの一、二発で降伏する者がほとんどだ。
 よしんば何発かを耐えたところで、発狂して廃人になるのではないかと傍から見ていて思った。

(……うっわ。こいつぁ……)

 派手な爆発を起こすわけでもない一見地味なその技は、人間の精神を断ち折り、崩壊させる恐るべき技である。



(ぜってー喰らいたくねー技だな)

 聞くだけで痛くなりそうな絶叫が、悶絶してのた打ち回る悪党どもの口から発せられる。
 まさに地獄絵図。

(神経系の痛みは根性とかでどうにかなるモンじゃない。打撃系の痛みのがまだマシだぜ)

 トップスピードから寸部の狂いなく星命点に打ち込む繊細かつ正確な技術は、他に追随を許さない。
 加えて“制約(リストリクション)”なる相手の身体の自由を奪う技と合わせれば、戦いは一方的だ。


「よいか。これで一時しのぎできたと思うなよ? 二度はないと思え」


「次はお前の身体ごと精神を砕く」


「貴様らの下衆な悪心など、どこにいても感知できる。再び私欲のためにその力を揮うことあらば、そのときは……」


「ふん、殺す価値もない。これはお前たちが踏みにじってきたモノたちの、たった数千分の一の
痛みだ。生涯消えぬ恐怖の記憶をその身に刻んで生きてゆけ」


 苦しみ悶えながら許しを請うさまを見下ろして、表情一つ変えない少年は高圧的に言い放つ。
 だが厳しい表情とは裏腹に言葉の端に甘さが見え隠れしている。
 次。二度と。再び。
 戦いの度、彼は敗者に立ち直りのチャンスを与う。

(挙句の果てには“生きよ”か。ハハッ。いいのか、それで?)

 表面的には拷問のようにえげつなく見えようとも、それは少年の甘さ優しさを象徴するような技だった。
 ずっと観察してきたが、彼は撃たない。
 決して。
 死を決定的にする15発目の……アンタレスを。
 一度に15発放てる技量を持ちながらも、尚且つ。
 一回毎に問うのだ。
 降伏か死か(お前はやり直せるか?) ……と。
 戦いを終えてもまた次なる戦いが待つ血塗られた聖闘士の道にあって、いつまでその優しさを保っていられるかはわからない。

(ふん。そんなことではいつか死ぬぞ、ミロ?)

 厚意は厚意として跳ね返ってくるとは限らないのだから。
 特に敵に対しては、微塵の情けも容赦も無用。
 わざわざ禍根を残すなど、狂気の沙汰である。

(ハンッ。そら見たことか、早速だ)

 今の今まで泣いて後悔の言葉を口にしていた男が、背を向けた途端に三下悪党の顔に戻った。
 小悪党の行動パターンなんぞ、こんなものだ。
 そう簡単に改心するくらいなら、初めから悪に手を染めたりしない。

(ククッ。さて、どうする?)

 俺のチビスケはもちろん、背後で起ころうとしていることに気づかないほど、間抜けではない。
 彼が見逃した暗黒側の聖闘士崩れが仕掛けてきた攻撃を一歩横にずれるだけでいなし、風圧でなびく長い金髪を翻して向き直った。

(……!)

 せっかく見逃してやったものを、裏切りで返されたチビが怒りに任せてトドメを刺すかと思いきや。
 振り返るその青い瞳には、憐憫と深い悲しみの色が滲んでいた。

(…………海……?)

 瞬間、母国ギリシャのどこまでも青く光る海に抱かれて落ちてゆく、不思議な感覚に捕われる。

(今のはなんだ? 幻……?)

 瞬きの間にそれは消えてなくなったが、ちくりと胸に微かな痛みを残す。
 だが戦闘が再開され、気を移すと共にそれすら意識から流れてしまう。

「とても」

 そっと瞼を下ろしたミロが小さく息をつく。

「残念だよ、……さようならだ」

 聖の字を冠に戴く神の遣いでありながら、魔女のような禍々しい紅の爪が伸びる。

「ま、待て! 嘘だ! 今のは……」
「言ったはずだ! “次”はないと!!」

 キッと目を開いた瞬間に閃く赤い光。
 1、2、3、4……5つ目を数える前に、男は激痛によるショックのため絶命した。
 散りゆく安い命に気をやることもなく、俺の意識はひたすら金髪の少年に注がれる。
深い慈愛の海と獲物を仕留める捕食者の冷酷さを併せ持つ、青い瞳が綺麗だと、ぼんやりする頭で思った。


■□■


「わ、ネコだ♪ 待て待てっ」

 あっという間で一方的な戦闘を終えた少年は、頭をうなだれ聖衣ボックスを担いでのろのろ歩く。
やがて戦場となった場所から遠く離れた街中に入ると持ち前の無邪気さを発揮して、目の前を横切った猫に注意を移した。

 ガコンッ。

 建物と建物の間をすり抜けていった猫を追って、同じように通り抜けようとした彼は聖衣ボックスの存在を束の間、忘れ去っていたらしい。
 入り口で引っ掛かってしまった聖衣ボックスと遠のいてゆく猫の後姿を見比べて、不満を露に口先を尖らせる。

「……ネコ欲しいなー……」

 などと呟きながら、また歩き始める。
 聖衣ボックスを背負ってしまうとまだ成長期を迎えないチビの身体はたちまち見えなくなってしまい、後ろから見るとまるで箱に足が生えているようで可笑しい。
 しばらく行くと急に足を止めて、布に包んでいたボックスから菓子を取り出した。
 道行く人々が奇異の目を寄越してきても気にする様子もない。

(オイオイ……また聖衣箱に菓子詰め込んでんのかよ)

 見ているとちょくちょく一休みしては、箱の上に腰を下ろして足をぶらつかせながらおやつタイム。

(今度はまぁ、またデッケェパンかじって……。腹に入るのかよ、アレ。デブになるぞ、デブに。いや、いいけど。もう少し太った方が……以下略)

 上手く「降伏」させられたときは、意気揚々と捕虜を引き連れ聖域に帰ってくる。
 あるいは相手に見所ありと判断すれば、見逃してしまうこともある。
 手ぶらで戻れば、叱責を受けることがわかっていように。
 そして今回のように死なせてしまった場合は、菓子を頬張りながらだらだらと寄り道をするのがお決まりだった。

「お。ワンコ発見」

 好奇心に満ちた瞳は、道端にうずくまる野良犬を捕らえる。
 かじりかけのパンを包みに戻し、聖衣ボックスに詰め込むと小さく見えている犬に向かってまっしぐら。
 側には数人の、ちょうどミロと同い年くらいの子供たちが集っていた。
 人懐っこいチビのことだ、仲間に入れてもらうつもりでいたのだろう。
 しかし彼らは犬と遊んでいるのではなかった。
 犬で、遊んでいたのだ。

「きったねぇ犬」
「くっせ!」
「石投げろ、石!」

 身動きしない大きな犬は、格好の標的となって石のつぶてを受けていた。
 状況を把握したチビは、手の位置にある己の服をぎゅっと握り締める。
 背後にいる俺に表情は見えない。
 それでも見逃してしまいそうな小さな行動は、理不尽に対する怒りを感じ取るに十分だった。
 そのまま殴りかかるかと予想したが、彼はそうはしなかった。
 怒りに固めた拳の力を緩めて足元の小石を拾い上げ、少年たちに近づくと明るくこう言ったのだ。

「楽しそうだな、俺も仲間に入れてくれ」
「お? なに、オマエ」

 大柄で太っちょの少年が振り返ると釣られて全員がこちらを向く。

「ね。仲間に入れろよ。楽しそうじゃん」

 彼らは突然現れた見知らぬ少年を頭の先から爪先までを観察し、仲間内で囁き合う。
 中に一人いる女の子はさっと顔を赤らめて、急に髪を気にし始めた。
 TVで見たことある気がするなどと適当抜かす者までいる。
 こんな片田舎には不釣合いの美少年だ。当然の反応だろうと自分の身内と言うわけでもないのに俺は鼻を高くした。
 そしてこのとき、俺は新たな発見をしてしまった。

(……デブ……醜いな……)

 ちょっとくらい太っていた方が可愛いと主張していた俺だが、あのガキんちょグループのリーダー格らしい少年は、どうにもただの汚らしいデブにしか見えない。
 ちょっとくらい、じゃないからか?
 完全デブだから?
 ていうか、顔がブサイクだから?!

(…………チビの菓子……少し取り上げる必要が……?)

 俺のチビがあんな醜いただのデブになっては一大事!!
 なんとかあの聖衣ボックスの中身を簒奪しなくては!
 この世で五本の指に入る重大な選択に迫られて、悶々と考えている間にチビは既に戦いの火蓋を切っていた。

「いいぜ。入れてやるよ。あの犬に上手く石を当てられたらな」
「ほほーう。ナルホド、このブタに上手く石を当てればいいんだな?」

 言うなり、至近距離で手の中の石を太った少年の顔面に投げつける。

「ぐぎゃっ!?」

 少年は鼻を押さえて蹲り、指の間から滴り落ちる血を見て泣き出した。

「何すんだよっ!? テメェッ!!」
「だから。仲間に入れてくれって言ったじゃん。俺もお前たちと一緒で弱い者イジメ、だぁーいスキなんだっ♪」

 別の少年の抗議に意地悪く答えたミロは、もう一つ、足元の石を拾い上げる。

「どんな遊びだっけ? ルールは? どこに当てれば点数高い? 頭? それとも顔か? ……目玉でも潰す?」

 小石を宙に放っては手元でキャッチする動作を繰り返し、問う。
 ……しでかすと思った。
 俺はクックと喉の奥で笑って、たちまち小さな戦場と化す、夕方の街角の風景を眺める。

「やっちまえ!!」

 美少年に対する興味はたちまち警戒心と敵意に塗り代わり、サブリーダーの合図と共に四方から石が投げつけられた。
 もちろん、飛礫のひとつ、彼に当たりはしない。
 同時に投げつけられたそれらを手にしていた石で弾き、器用に相手の顔面に当てていく。

「……さて。次は誰にし・よ・う・か・な?」

 悪戯っぽく笑い、品定めを始めるチビスケに悪ガキ共の表情が凍りついた。

(さっさと撤退するのが良策だと思うぞ? 何せ、そいつは今さっき、人間を殺してきた殺人犯だからなぁ)

 ニヤニヤと口元を歪めながら、俺は腕を組んで民家の壁に寄りかかる。

「うわっ!? 何コイツ!?」
「ヤベーよ、頭おかしいよ!」
「い、行こうぜ!」

 鼻血を溢れさせているリーダー少年の肩を貸して、悪たれ共は無様に逃げ出した。

「ふん。頭おかしーのはオマエラだ」

 自称“弱い者イジメが大好き”な小さな正義の味方は、年老いて人に見捨てられた犬に目を向けると、かじりかけのパンを聖衣ボックスから取り出してそっと差し出す。
 それから辺りの家にあった鉢植えの受け皿を勝手に拝借して、軽くペットボトルの水で洗うと、そこに中身を注ぎ足して犬の側に置いた。

「コレ食うか? 俺がちょっとかじっちゃったけど、半分こってことで」

 地べたにぺたんと座り込んで話しかける。
 犬はわずかに反応して億劫そうに瞼を持ち上げ、怯えを含んだ瞳でチビスケを見上げる。
 死期が間近に迫っているであろうその目は、白く濁り膿に汚れ、毛並みはみすぼらしくあちこち抜け落ち荒れ果てていた。
 それでもパンと水の匂いを嗅ぐとぱたんぱたんと左右に二度ほど尾を振ってみせる。

「俺はミロという。キミは何者だ? ……いや、どうせお互い言語が通じないから名乗っても無駄か。できれば名を知りたかったが……でも言葉が通じなくてもトモダチにはなれるよな? 俺はキミとトモダチになりたいのだ。それは好意の印のプレゼントだ。決して、施しなどではない。わかってもらえるだろうか?」

 ……わからん、わからん。
 俺はそんな様子のチビに心の中でツッコミを入れる。

「キミは人が怖いか? きっと大変な目に遭ってきたろう。同じ人として、申し訳なく思う。でも良いことも少しはあったなら、そのこともどうか思い出して欲しいのだ」

 見た目に汚らしく、気味の悪い老犬にそっと手を伸ばし、頭をなでる。

「身体の毛はごわごわだけど、頭の上は柔らかいな。……へへ、かわいい……」

 最初は怯えをみせて身を硬くしていた犬も、相手に敵意がないことを知るとやがて気持ちよさそうに目を閉じた。
 もしかしたら、遠い昔、飼われていた家で可愛がられていた頃を思い出しでもしているのかもしれない。

「キミはとても立派な犬だ。こんなに年老いるまで生きてきたのだから、誇って良いのだぞ。誰が何と言おうと、石を投げられようと、追い払われようと、それでもキミは生きた。だからキミは立派で強い犬だ。少なくとも俺は尊敬する」

 犬の成長を無視した小さな首輪に気がついたチビが、錆付いた金具を苦労して緩めてやっている。

「偉大なキミの価値をわからないヤツなんかは、放っておけば良い。他人の評価など些細なことだものな。だけど今日からキミと俺はトモダチだ。だから、キミを傷つける者があれば俺が守ろう」

 初めはからかい半分に眺めていた俺は、いつの間にか薄汚れた犬に自身を重ね合わせ始めていた。
 あんな、臭くて、汚くて、哀れで、どうしようもない、野良犬に。
 表面意識では、俺はあんな小汚い犬などではないと否定しながら、犬と少年から眼が離せなくなる。
 何故だか、胸が、苦しくなる。
 ずきずきと痛む。
 上手く、息ができない。

(……何故だ)

 犬は、いつから見捨てられたのだろうか。
 どうして誰からも目を向けられなくなったのか。
 犬は……


■□■


 オレンジ色の陽は落ちて、蒼く空が染まっても、チビは老犬の傍らにいた。
 俺もすぐ側に立っていた。
 身を隠すことすら忘れて、ふらりと歩み寄る。
 チビはマスクとサングラスと帽子で顔を隠した俺を見上げて不審な目を向けてきたが、ゆっくりと上着のポケットから棒のついたアメを取り出すと一つ、わけてくれた。
 まるで俺が誰だかわかっているかのように、自然にアメを突き出す。
 衛生的に少々の抵抗はあったが、小汚い犬を触った右手ではないことと、一つ一つビニールで包装されたものだったから、受け取って口にすることにした。

「……犬は、死んだのか?」
「……ううん。まだ、息はしてる。でも、パン、食べてくれないんだ」
「……水は飲んだろ。きっと、美味いと思ったさ」

 それから二人でアメを咥えながら、犬の傍らに腰を下ろし、死を看取ることになった。

「……おじさん、誰だよ? ずっとついてきてだろ」
「“お兄さん”と言ってくれないかな。一応、これでもハタチなんだが」
「…………そんなサングラスや帽子とかマスクしてたら年齢なんかわかんないよ。オジサン呼ばわりされたくなかったら、せめてサングラス、取ったら? 夜なのにサングラスとか変だ。あとマスクも。それじゃ変質者と間違われても仕方ないぞ」

 アメを食うのに邪魔だったから、マスクは素直に外した。
 いくらなんでも、チビにはわかるまい。
 たった6つのときに数日間、遊んでやっただけの、近所のにいさんの顔なんて。
 サガの写真を持っていたから、この帽子とサングラスを外してしまったらさすがにバレるだろうが。

「ちょっとワケありでね」
「ならもっとマシな変装しろよな」

 いつ頃からかはわからないが、途中から尾行には気づかれていたようだ。
 聖域内にいるときと違い、戦いに赴く身だ。
 神経を研ぎ澄ませていたのだろう。
 ここはさすがと褒めてやるところか。

「ひょっとして、俺への監視? 俺が任務失敗ばっかりするから」

 殺気など微塵もない俺を敵とは認識せずに、彼は身内と断定した。

「ま、そんなようなモン」
「……やっぱりな。でも今日はちゃんと命じられたとおりにした。文句ないハズだ」

 今日、刈り取った命を想ったのか、チビは遠い目をして溜息をついた。
 聖域内では常に赤毛が隣を独占し、一人になると思われる夜は何故か姿をくらます。
 巡ってこないチャンスをじっと待ってやってきたのが、聖闘士としてのミロに下された裏切り者の討伐命令。
 最初はすぐに拉致して海界に連れ込もうと考えていた俺だが、蝉の抜け殻を集めて喜ぶ子供がどのように戦うのか見てみたくなったのだ。
 そうしていくつかの結末を見届け、確信できたのは彼が戦いを苦手としているということ。
 勝気で内に秘めた激情をときに表面化させる場面もあるが、基本的に命を奪うのをよしとしない。
 だがその心理は俺には理解しがたい。
 俺にとって大切な命というのは、自分と自分の気に入ったモノだけだったからだ。
 その気に入ったモノでさえ、飽きれば価値を見出せなくなって簡単に手放し、ときに破壊する。
 命は勝手にそこにあるだけのもので、特別な価値も意味もない。……ハズだ。
 今も自分で断った敵の命と、消え逝こうとしている犬の命を前に葛藤を続けている、俺のチビスケ。
 チェスやショーギにおえかきに。夢中になっていた頃は、こんな悩みが付きまとうとは想像もしていなかっただろう。
 そうして少しずつ薄汚れていく。
 正義の名の元に人を殺して歩いて、いつか何が正しいのかを見失って……?

「……そんなのは、嫌だ」
「は?」
「いや、なんでもない。独り言だ」
「……?」

 夜が更けて、犬はミロの声かけにほとんど反応しなくなっていった。
 呼吸は遅くなってゆき、途切れそうでもなかなか死には至らない。
 それでも頭や顔をチビの手にこすりつけるような動作や舐める仕草が時折見られ、最後の命を燃やそうとしているのだと感じさせる。
 ミロはその間、赤子をあやすように一定のリズムで犬の身体を軽くトントンと叩き続けていた。
お前を看ているよ、お前を気にかけているよ、お前を忘れてなんかいないよ、と。
ようやく犬がただの生ゴミになったのは、明け方になってから。
 見知らぬ老犬のためにはらはらと涙を零したチビは、見知らぬ俺に抱きついて頭を振った。

「犬が、死んでしまった」
「……ああ、死んだな」
「犬は人を恨んで逝ったろうか?」

 涙に歪んだ瞳をあげて、少年が問う。

「なに?」
「人が恨まれるのは仕方ない。けど……何かを恨んだままで逝くのは苦しかろう。少しでも、ほんの僅かでも……ああ、よかったなってことを思い出してくれていたら……」

 ……そんな考え方も、あるか。
 ひとつ息をついて、俺は応えた。

「……思い出したとも。水がいかに美味いか、パンの匂いがどんなだったか。……撫でてくれる手の感触だって」
「そうかな」
「そうさ。犬は幸せだった」

 犬は幸せだった。
 欲しいものは全て、手に入ったのだから。
 それが例え、今際になってからだったとしても。
 ふわりと柔らかい髪に顎を乗せて、目を閉じる。
 ひょっとして、俺は今、悲しいのだろうか?

(フ、……まさかな)

 そんなわけがない。
 あってたまるものか。
 ボロ雑巾のような犬が一頭、死んだだけだ。
 見知らぬ犬だった。
 俺にもチビのミロにも。
 俺は犬じゃない。
 こんな未来は待っていない。
 これはただ、犬が一頭死んだというだけの出来事に過ぎない。
 よくある出来事に、多感な年頃の少年が感情を寄せ過ぎて涙しただけのこと。
 俺には関係ない。
 関係ない。
 胸が苦しいのは気のせいだ。

「お前、クセェ犬を触りまくったクセに抱きついてくんなよ。ダニとノミだらけになんだろが」

 言いながら、華奢な身体を強く抱きしめる。
 柔らかい髪から、懐かしい匂いがした。
 香水や化粧の人工的な臭いではない、日なたの香り。
 忘れかけていた、惹かれる理由が思い出される。
 昔にも増して、ますます手元に欲しいと思った。
 どうせ俺もロクな死に方をしないに決まっている。
 巡り巡って報復されるような生き方をしてきた。
 俺がのたれ死ぬそのときまで、コレは傍らに置いておくのだ。

「犬、連れて帰るから手伝って?」
「……死んでるが?」

 ひとしきり、静かに泣いた後で目をこすりながらチビが言った。

「俺の墓に一緒に入れるんだ」
「オイオイ。俺の墓って……それは歴代の黄金聖闘士が眠る墓のことか?!」

 目をこする手をつかんでやめさせ、俺が渋顔を作る。
 まったく。子供の考えることは突拍子もない。

「ハァ。どうしてそういう考えにいくかな。……叱られっぞ」
「だからコッソリだよ」
「その辺に埋めて帰ればいいだろうが」
「ここじゃ遠くて、あまり会いに来れない」
「忘れちまうよ、すぐに」
「忘れないっ! そのうち俺も一緒に入るんだから。そしたら、冥府で犬と遊べるだろ。それにまたイジメられたら大変だ。トモダチだから、俺が側にいて守ってあげるんだ」
「そのうち一緒にって……あのなぁ。墓だろ? 墓に入るときのコトを今から考えてどうするんだよ」

 幼稚な想像に思わず笑ってしまった俺にチビはハッとするくらい真剣な目を向けてくる。

「……長い間、黄金聖闘士に選ばれるような人材はいなかったと聞いている。ずっと不在だったと。それが今になって揃い、それも老師以外は全員、子供だ。これはやがて来る聖戦のための準備ではないかと囁かれているのは知っていよう? 無論、聖戦は勝たねばならんし、必ず勝つ。だが、犠牲は避けられぬ。それはお前かも知れんし、俺かも知れん。それもきっと……そう遠くない気がする」

 死。
 それは聖闘士にとって身近な存在である。
 けれど危機に陥った経験もないであろう、絶対的強者として君臨するコイツがそれを意識しているとは思わなかった。
 他人の命を絶ってきた直後だからか。
 理不尽な扱いを受けた犬が目の前で死んだからだろうか。
 気が高ぶっているのかもしれない。

「はんっ、何をナマイキ言ってんだ。若造の俺の半分ちょいしか生きてないクセに」
「……む。ナマイキはお前だ。どーせ教皇付きの密偵か何かだろうが、黄金聖闘士にタメ口とは無礼だぞ」
「はいはい、スンマセンね。チビッコすこーぴおん様」
「あっ!? コラ、つむじを押しながら言うなっ!! 背が止まったらどーしてくれるっ!? 俺をチビとコケにするカミュにいつか勝たねばならんのにっ!!」

 暴れて俺の腕から抜け出し、チビは俺が着ているコートを引っ張った。

「む。良いのを着ているな。コレにくるんで連れて行こう。さぁ、よこせ」
「……俺の意思は総無視か」
「うむ。よこせ」
「……オマエ、よくワガママとか言われない?」
「早くよこせ」
「……仰せのままに」

 仕方なく薄手のコートを脱ぎ、指示されるままに大きな犬の死体をくるんで持ち上げる。
 生き物は死ぬと重たくなるが、それにしても重い。
 それにクサイ。
 ダニやらノミやらこちらに移ってきて後で痒くなるんだろうなと考えてウンザリした。
 歩き出した俺の速度に合わせようとして、チョコマカと小走りでついてくるすこーぴおん様。
 少し歩幅を狭めてやれば、さっきまでメソメソしていたクセに今は口をへの字に結んで、変な気遣いは無用だとばかりに小さい鼻をつんと上に持ち上げる。

「ははっ。気位の高いことで」

 放っておくとときにピョンピョンと無意味に跳ねながら、ときに俺の影を踏むのに夢中になりながら、一生懸命についてくる。
 追ってくる、確かな存在を背中に感じ、どこかくすぐったい気持ちになった。

(コイツと一緒にいると気分が一定じゃなくなるな。……なんでなんだろうな)

 さっきまで感じていた息苦しさが氷解されてゆく。
 ああ。犬など置いて、すぐにでも連れ帰りたい。
 聖域に入ればまた連れ出すのが難しくなってしまう。
 だが、犬を放置すればスネてしまうのは目に見えている。
 ワガママ王子様の扱いはなかなかに骨が折れた。

 

 


「犬を埋めたら、今度こそ海底だからな」
「海底? 何の話だ?」
「約束をしたの、覚えているか?」
「……いや、全然」
「では俺が誰だか、わかるか?」
「……? サングラスと帽子とマスクの変な人」
「マスクはもうないだろ」
「じゃあ、サングラスと帽子の変な人」
「……ふぅ」
「なんだよ。どうせホントはよく会ってるんだろ? なんかわかるぞ。絶対知ってるヤツだ。声に聞き覚えある気がするし、懐かしいみたいな変な感じがする。そろそろ顔見せろよ」
「ダァメ。まだもっと後で」

 サングラスを外そうと伸ばす手を軽く叩き落とす。

「ちぇーっ。もったいぶっちゃってサー」

 すでに聖域にほど近い農村に足を踏み入れている。
 もっと遠い地でなら外して見せてもよかったが、ここではどこに聖闘士関係者がいるとも限らない。

(約束までは覚えていなくても、なんとなくならわかる……か。6歳の記憶力なら、それくらいが限界かな)

 農村をもう少しで出る。そんなおり、ふわりと鼻腔をくすぐる甘い芳香が漂ってきた。

(……! これは?!)

 布に包んだ死体を落して鼻と口を塞ぎ、片手でチビを手元に引き寄せる。

「!? なんだよ、急に!?」
「気づかないのか、バカ! この香りは……ッ」
「わかってるよ、これは、」

 チビが言い終わる前に、


 ザンッ。


 赤い花びらを撒き散らしながら、足元に薔薇が突き刺さる。

「ぎゃんっ!?」

 ……ついでにチビの頭のてっぺんにも薔薇が刺さってビヨンと揺れていた。

「兄上が今か今かとお待ちかねですよ、弟君?」
「……貴様は!」

 人気のない田舎道をゆったりとした足取りで近づいてくる影。
 緩いウェーブのかかったアイスブルーの髪。
 肌の白さを際立たせる、ふっくらと血色の良い唇。
 到底、男には見えない聖域随一の美を誇る黄金の戦士……!

「何をするんだ、アフロディーテッ!! 死ぬだろ、フツーにっ!!」

 頭上から薔薇を抜き取って地面に叩きつけ、チビが吼えた。
 ミロの怒りを涼しげに受け流して、ピスケスのアフロディーテは優雅な微笑みを俺に向ける。

「本当にその山猫をお気に入りのようで」

 魚座のアフロディーテ。
 確か……もう14か。
 俺が海底神殿に降りた年頃だ。
 たかが14の小娘……ではなかった、少年のクセしてなんという妖しき美しさか。
 柔らかい微笑を浮かべていながら、隙のない視線。
 片手に弄ぶ白薔薇。あれには気をつけねば、一発で死ぬ。

「兄上って……? 誰の?」

 きょとんとしてチビが俺を見上げる。
 だが質問に答えている余裕はない。
 何故なら、いつの間にやら囲まれていたからだ。
 ……三人の黄金聖闘士に。
 民家の壁角から、陰気な小宇宙を纏ったもう一人が姿を現す。

「楽しかったです? 遠足は?」

 薄ら笑いを浮かべる、死の仮面……蟹座のデスマスク。

「よく戻ってきましたね? 俺はてっきりそのまま海にドロンすると思っていたんだがな」

 そして屋根の上から、冴え冴えとした鋭利な視線を寄越すのは、山羊座のシュラ。

「デッちゃん! シュラまで……なんでここに!? ……俺が、そんなに信用ならないのか!?」

 ジタバタと俺の腕から抜け出そうとするミロを背中に回す。
 ヤツラはミロの監視で来たのではない。
 俺を……捕縛するのが目的、か?

「どこからつけていやがった?」

 俺は三人をねめつけて攻撃的小宇宙を纏う。
 この俺が、うかつにも他から見られていることに気づかずいたこと。
 そしてチビとのやりとりを観察されていたことが異常に腹正しい。
 チビといるときの俺はほとんど素だ。
 それを覗かれるということは、心の領域に土足で踏み込まれたも同じこと。
 腹の底からふつふつと怒りに因る殺意が膨れ上がる。

「なんだ、この強大な小宇宙は……!? オマエ、何者?! 教皇の密偵ではないのか!?」

 元から大きな目をまん丸にしたチビが俺を凝視する。
 しかし刺客の三人はさすがに動じない。

「最初からずっと尾行していましたよ。……ただし、ずっと何kmも離れたところからですから、気づかぬも無理からぬこと」

 首にぶら下げていた小さなオペラグラスを外して見せて、アフロディーテが肩をすくめ、

「そうそ。下手に近づくとアンタに殺されちまうからな。遠足の邪魔だってよ」

 両腕を組んだ格好でデスマスクが口角を吊り上げて笑う。

「だから。何をして、どんな会話を交わしていたのか。俺たちは知らない。……興味も、ない」

 硬い声と同様に仏頂面のシュラが続ける。
 三人が申し合わせたように。
 あるいは最初から意思のつながった三位一体の生物であるかのように、会話をつないでゆく。
 俺との距離を詰めながら。

「その山猫は返していただきますよ。教皇の持ち物ゆえ」

 薔薇の花びらが舞い、赤い嵐となって視界を奪う。

「アンタの返答次第じゃ、くれてやるってよ。とにかく会いに来てくれや」

 たった今の今まで離れた場所にいたデスマスクの声がすぐ脇から聞こえる。

「……チッ! ガキ共!!」

 デスマスクに拳を叩き込んでやろうとすれば、

「こっちに来い、ミロ」

 逆からシュラの声がする。

(クソが)

 俺は酷く動揺していた。
 この三人が派遣されたということは、とっくに兄……サガに俺の行動が筒抜けだったということだ。
 しかも今まで泳がされていたというのが気に入らない。
 俺がミロを連れ去ろうとすれば、この三人がすぐに阻止する体制は最初から整えられていたのだ。

「確かに貴方は強い。だが、まさか俺たち三人を相手取って、しかも聖域のすぐ側で騒ぎを起こすような愚かな真似はしますまい?」
「……くっ」

 香気に中てられたか、眩暈がする。
 ミロに気をやると、虚ろな目をして人形のようにピクリともしない。
 まさか……!?

「死んじゃいない。この香りを嗅ぐと意識を眠らせるようにあの人が術をかけたのさ。心配いりませんて♪」
「“教皇の間で待つ”。確かに伝えたぞ」

 彼らはあっという間に俺からチビを奪い、花びらの嵐の中に消えた。
 残されたのは、惨めな犬の死体と日陰の男だけ。
 久しぶりに身を焦がす憎悪に支配され、髪をかきむしると声にならない叫びを空に向かって放つ。
 その勢いで長い道のりを担いできた、腐りかけの犬を蹴飛ばして踏みにじる。
 バキボキと骨の砕ける音が足を通して伝わった。

「バケモノめっ!」

 サガがいる限り、どう足掻いても表舞台に立てない!!
 仮面を外せない!!
 俺はいつまで経っても、あの暗い双児宮(めいきゅう)の中だ。

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