「はははっ。そう言うな。こういう場では一緒になって騒がんとシラけるだろう? んー?」
んなことを言われても、好きで来たわけでは……
ていうか、クリシュナ……オッサンみたい。本当にカミュより年下なのかなぁ、この人。
「いいっ、酒いらな………ぐ…首っ、絞まる……っ!」
クリシュナの脇から頭を引っこ抜こうとすると、いきなり筋肉が盛り上がり、よけいに絞め上げられてしまった。
も~っ! 海界にいるとこんなんばっかだ!!
俺は玩具じゃないぞっ!!
「ぬはははっ! そう簡単に逃れられると思うな、クラーケンよっ」
「ギ、ギブ……ぐぇっ」
なんだよ、この筋肉ッ!? 無理! 抜けないっ!! マジ、窒息っ!
「コラコラ、ダメですよ、クリシュナ。アイザックはまだお子様だから、お酒なんて無理ですって。……ねー?」
2つしか違わないくせにそんなことを言うソレント。
だが一番、酒をがぶ飲みしている恐ろしい漢だから逆らうのはよしておく。
それに助け舟は有難……
「いっ!?」
って、ちょっと……猫掴みっ!?
ソレントにわしっと襟首をつかまれたと思ったら、力任せにクリシュナの腕から引っこ抜かれた!
なんたるパワー!! つか、首がもげるかと思った。
しかも今、ビリッてゆった! 絶対、どっか破れた。
「よし、じゃあお兄さんとポッキーゲームしような、ザック♪ ……ん~♪」
ひぃ!? いつもは割と良識家のバイアンまで酔っ払ってる!
「やんない、やんないっ」
相手の顔を押さえて接近を防ぐ。
酒って飲み物はなんて迷惑なんだ! 普段の皆からは想像もつかないありえん行動を平気でしてくる。まったくもうっ! もうっ!!
「カッ、カーサがポッキーゲームしたいって!」
180はありそうなバイアンにのしかかられたら、脱出不可能になる!
そうなる前にあわててお鉢をカーサに回した。
すると酒の入っているバイアンはあっさりとターゲットを変えてくれたので、助かった。
「おー、そーかそーかっ。よし、カーサ、ポッキーゲーム……」
「やんねーよっ。コラ、テメ、ザク! なすりつけやがったな!?」
……とうとうザックからザクになってるし。どんどん短くなるな。
それならクリシュナだって短縮されそうだけど、彼はそのまま呼ばれている。
なんだって俺ばっかり。
ポッキーゲームを巡って、バイアンVS……いや、海馬VS海幻獣の怪獣大決戦が勃発。
「よ……よしっ」
皆が喜んで観戦している今のうちに……
(俺には大事な使命があるんだからっ)
怪獣共に見つからないよう、コソ~っとドアの方に近づいたら、背後から胴に腕が巻きついてきた。
しまった! イオに見つかった!
「イヒヒッ、逃げようったってそうはいかんぞ、ザックゥ~」
「ま、待って……カ、カノンっ!? カノンは?」
うわわ、目が据わってるーッ!?
言ってる間に体が浮き上がり……バックドロップを喰らった。
「はがっ!?」
目の前に星が散る。
い、いかん……早いトコ、隙を見て逃げ出さないとこのままでは……
(殺される……!)
「よし、逃げ出そうとした罰じゃ。皆でチュ~☆の刑に処す」
ヒィィイィ!? 何ゆっちゃってんの、アンタ!?
「じょ、冗談でしょ……」
罰じゃ、じゃないっ! どんだけ酔っ払ってんだよ!
今の不吉な言葉を聞いて、怪獣決戦を繰り広げていたバイアンとカーサもこちらを振り返る。しかもニヤリとしながら。
気づけば、全員が嫌~な笑みを浮かべてこっちを見てる!!
悪ノリしすぎっ!
「うわわっ。俺っ! カノンも呼んでくるっ!!」
四つ這いのまま、ドタバタとドアノブに飛びつきようやく外側に転がり出る。
「あ~、逃げる気だな、ザック! そーはいくかっ」
「カノンなんか呼んでもこないって」
「呼んでくるッ!!」
無理やりドアを閉めて、捕まらないようにダッシュ。
この場にいないメンバーを口実にしてようやくヨッパライ地獄から抜け出した。
もはや精神的に満身創痍だ……はふぅ、疲れる。
「あー、外の空気が美味い」
適度に湿度のある冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、酒臭い体内の空気を循環させる。
「ったくもう。冗談じゃない」
こんなに大勢のヨッパライにからまれるのは初めてだ。
海界にきてから、自分のペースが保てない。
常にクールでいろという師の教えがほとんど実践できず、修行不足を痛感。
しかしあんな酔っぱらい相手にどう立ち向かえというのか、さっぱり見当がつかない。
「……よし」
一度、皆が集まっている神殿を振り返って、うなずく。
いつ問いただそうかと考えていた、カノンの正体。
ソレントの馬鹿力によれたシャツの首元を直しながら、俺は海龍神殿へ向かった。
一箇所に将軍が集まっていて、いないのは俺とカノンだけ。
そして俺は今、カノンのところへ行くと明言してきた。
これだけの好条件。次はいつそろうか知れたものではない。
(……ならば今を逃す手はない)
緊張しないわけではない。
俺が想像している通りだとしたら、カノンはとんでもないことをしでかそうとしている大罪人だ。
それを思い止まらせようというのだから、それ相応のリスクを覚悟せねばならない。
(俺にもっと力があったら……もっとオトナだったら……)
同じ説得を試みるにしても、カノンの半分しか生きていない俺ごときの言葉が果たして届くだろうか。
七将軍の一人とか言われてるけど、カノンが俺を同等に見ているわけがない。
(……もしものときは……)
勝ち目がなくても、戦うしかない。
例え殺されてたとしても、その事実は他の将軍たちにダイイングメッセージとして伝わる。
恩人であるカノンに罪を背負わせる前に、恐るべき計画を白日の下に曝せることができればそれでいい。
(……カミュ、氷河。すまない。ひょっとすると、本当に今生の別れかも……)
恩師と共に競った兄弟を思い浮かべて、水の天井を見上げる。
俺は間違ってない。間違ってない。言い聞かせて覚悟を決める。
よし、行くぞ。
時計を持っていないから正確にはわからないが、感覚としてはすでに深夜を回っていると思う。
(まだ起きているといいけど……)
深呼吸で気持ちを落ち着かせ、海龍神殿の扉をノックしたら、すぐに返事があった。
入れという許可に従い、細く開いた扉の隙間から身体を滑り込ませる。
う、酒臭い。思わず顔をしかめる。
こっちでも晩酌してたのか。
カノンのとろんとした目がなんとなく、怖い。
顔も赤いし、明らかに酔ってる。こんなんで真面目に取り合ってもらえるだろうか。
「で? なんだ、クラーケン。話というのは?」
座るよう勧められたが、俺はドアの前から離れなかった。
もしものときは戦う覚悟だが、最初から死ぬつもりで来たのではない。
逃亡ルートは確保しておかねば。
生きていればこそ、失敗しても次の策を練れるというものだ。
さて。どこから切り出そうか。
思案しているとカノンは面倒くさそうに俺を一瞥した後、瓶に直接口をつけて酒をあおった。
ああ、あんな無茶な飲み方をして……。
「うえっ。強いばかりで全然、美味くねーわ」
それなのに美味しくないとか。マズイなら飲まなきゃいいのに。バカみたいだ。
「質問があります、シードラゴン」
単刀直入。アンタの正体を教えろと迫るとカノンは酔った顔を一瞬だけ強張らせた。
「……正体? なんだ藪から棒に」
「……アンタ、ホントは……聖闘士……ですよね?」
「……ははっ。何を言い出すかと思ったら」
真面目に取り合わず、笑い流そうとしたカノンに、しかし俺は追及の手を休めない。
「12年前、射手座の聖闘士が反逆罪で誅殺される少し前に、双子座の聖闘士が忽然と姿を消している」
「……それが何か?」
海闘士の動向を探る目的で聖域を離れたと聞いているが、その後、彼を見た者は誰もいない。
何故なら……俺の想像が正しくば、その双子座の男とは……
「アンタは海将軍なんかじゃない……」
そこまで言いかけて、ぐっと口を噤んだ。
およそ人間らしい温度などない、爬虫類の瞳が俺を見据えていたからだ。
(……マズイ。殺される……?)
危険を感じて一歩、後ろに下がった。
だが俺にはカードがある。
「俺の口封じなんて早まった真似はしないことだ」
「……ふん。またナマイキを」
「俺が消えたとなるとまずアンタが疑われる。海闘士たちに俺が討たれることはない。他の海将軍は全員、一箇所にそろっている。いないのは俺とアンタだけ。それとも? 今更、地上に帰ったなんて言い訳でもしてみます?」
「……本っ当に可愛くないガキだな、オマエは」
俺の言う意味を汲み取って、カノンは殺意を無理に押し殺した笑みを浮かべる。
「アンタは双子座の…………サガだ。……そうでしょ?」
「……ナニ? 今、なんと?」
カノンの……いや、ジェミニのサガの眉が吊り上がった。
今、少しとちっただろうか。いや、そんなこと、もはや気にしても仕方がない。
「サガ、アンタは黄金聖闘士のハズなのに、何故、雲隠れまでしてこの海界に来た? 地位まで捨てておかしいじゃないか。アンタの目的はなんだ!?」
「……目的など知ってどうする? オマエこそ、何が目的だ?」
「……地上へ帰ろう、サガ。俺たち聖闘士は此処にいるべきじゃない」
そうだ。海界から身を引くんだ。
ここでの生活はなかったとして、それでいいじゃないか。
我々は海界にいていい者じゃない。
あの人たちを裏切ったままなんてダメだ。
アテナとポセイドンの二柱が争いを起こさない限り、聖闘士も海闘士も別に宿敵ってワケじゃないんだから、避けられる戦いなら、避けるべきだ。
「俺は帰らん。お前みたいなガキに説得されて、ハイそうですねって大人しく身を引くと思っているのか、バカが! なんのために12年もここに潜伏したと思っている? 避けられる争いなら避けるべき? ふんっ。その争いを起こすためにこのカノンはここにいるのよ!」
だが予想通りと言おうか、サガは耳を貸してはくれなかった。
もう一歩、俺は後退りしてドアノブに手をかける。
十分、揺さぶりをかけた。今ここで無理に決断を迫ることはない。
ここらが潮時だ。出直す必要がある。
こちらが退路を準備していたのに気づいたサガの眼の色が変わった。
(うわ、マズイ……)
緊張しきった空気の温度が一気に下がる。
俺は、後ろ手で素早くドアを開け、外に退避しようとした。
「愚か者! 俺とお前のリーチ差がどれだけあると思っている!?」
身を翻し、一目散に駆け出したつもりだったが逃亡は成功しなかった。
思ったよりも速く、背後から長い腕が伸びて髪をつかまれる。
「ぃたっ!」
乱暴に髪を引っつかまれて、部屋に放り込まれた。
受身をとることもできず、まともに床に叩きつけられてあちこちを擦り剥く。
「……くっ! サガ! アンタはっ!!」
「……サガサガと呼ぶな、クソガキ!!」
立ち上がろうとした俺に容赦ない蹴りが浴びせられる。
それから胸倉をつかまれて無理やり立たせられ、壁に押し付けられた。
「よく聞け、優等生? 俺を……サガと……愚か者のサガなどと一緒にするな!! 俺はカノン……カノンだ、クラーケン! お前がアイザックであるように、俺はカノンなんだ、わかるかクラーケン!?」
頭突きをしてきたサガが間近で怒鳴る。
迫力に竦んでしまいそうだったが、ここで弱みを見せるわけにはいかない。
「……わかりましたよ、うるさいな。俺、やかましいの好きじゃないし、そんなに大声ださなくても聞こえてるから」
精一杯の虚勢を張って言い返した。
「俺を……舐めるな小僧? いいか? この俺は、海界は愚か、地上も手にする神となる……カノン様だ。二度と間違えるな。違えれば、この細首……即刻、圧し折ってくれる」
サガじゃなくてカノン? ……偽名ではなかったのか?
では俺の見当違い? カミュから双子座の聖闘士はサガだと聞いて……双子座……ああ……そうか、なるほど。
「……おい……何が“ナルホド”なんだ? お前の推測通りならどうする?」
考えていたことが口に出てしまっていたらしい。
イラつきと共にもう一度、俺を壁に叩きつけたカノンは、深く息を吐き出して平静を取り戻したようだ。
「……さて、と。お前、本当に賢しいな。12年前の射手座と双子座の事件だけでそこまでたどり着くとは、さすがの俺も驚いたぞ」
開放されて床に腰を落した俺の側にしゃがんで、顔を覗き込んできた。
情けないことだが、今の俺はまさに蛇に睨まれた蛙。
恐怖で震えださないように手を握り締める。
「しかも、どうやら俺がサガの双子の片割れというのも気づいた。……そうだろ? さっきの、ナルホドってそれだろ? ん?」
冷たい汗が背中を伝い落ちる。
正直……すげぇ……怖い。
「……いいな」
突然、顎をつかまれて顔を上げさせられた。
薄ら笑いを浮かべたカノンは、俺の顔をじっと見つめてくる。
(深淵……)
かち合った目は深淵だった。暗くて深い、底なし沼の眼。
「こういうのが俺に必要なのかもしれん」
唐突過ぎて、何を言われているのか理解できなかった。
先程までの威圧が消えて、反対に機嫌が良くなったように見える。
そこが一層、不気味だった。
この男は、俺なんかの理解及ぶ相手ではないと今更のように思う。
(……どうする?)
この状況を何とかかわさなければ……
隙を見て外へ通じる扉から出るか、それとも逆に部屋の奥に逃げて窓から脱出か。
考えあぐねているとカノンから妙な提案を持ちかけられた。
「お前は俺を倒すだけの力がない。俺はお前を殺せない。つまり互いに手詰まり状態というワケだ。……で。ここで提案だが、俺たち、手を組まないか?」
どうやら、向こうは俺を丸め込む作戦にシフトしたようだ。
だけどそれは交渉の材料にならないぜ、オジサン。
世界を欲しがる人、そうそういないと思うんだけど?
正直、俺はいらない。
何かくれるっていうなら、沢山のぬいぐるみとか食べきれないほどのお菓子のがよっぽどいい。
「そろっそろ、跳ね返ってないでお兄さんの言うことを素直に聞いておいた方がいいと思うぞ? そうでないとお兄さんも奥の手を出さないとならない」
奥の手……。
何だか雲行きがかなり怪しくなってきた。
退路を断つようにカノンはドアの前を塞いだ。
「Yes……と答える方がいい。さもないと、俺はお前を殺さず生かさず、純粋な力のみで服従を強いなければならん。太古から行われている原始的な手段でな」
ちっ、やはり争いになるか。
まともにやって勝てる相手ではない。先手必勝で技を食らわせて、何とか逃亡する隙を作らなくては。
集中して凍気を纏う。
いくぞ、ダイヤモンド……
だが、技が完成される前に視界が突如として奪われた。
それがカノンの大きな手だったと理解したのは、テーブルの上に身体ごと叩きつけられからだ。
上に乗っていた酒瓶と遅い夕食を終えた後の食器が派手な音を立てて、床に砕け散る。
「はい、残念」
テーブルの上に仰向けになった格好で蹴りを見舞ったが、足首をつかまれていとも簡単に止められる。
「おい、跳ねっ返り! 大人しくしといた方が身のためだぞ? お前の細っこい足首なんぞ、いつでも握り潰せるんだからな」
足が開放された代わりに今度は両手首の自由を奪われた。
俺の両腕など、カノンにしてみれば一掴みで十分なのだ。
非常にまずいことになった。
まさかこんなにあっけなく捕まるなんて……!
「なんだコレ!?」
カノンが取り出したナイフで袖口がテーブルに縫いつけられてしまった。
「世間知らずのお前にひとつ、教えてやろう。人を壊すのは、何も直接的な暴力だけじゃない」
人差し指で顎が持ち上げられると抑えていた恐怖が一気に膨れ上がる。
あの人の暗い瞳の奥に、黒い獣が見えた……気がした。
……その後のことは……もう、思い出したくもない。
痛くて、怖くて、どうにかなりそうだった。
思考力は根こそぎ奪われて、ただ圧倒的な力の前に、一方的な暴力の前に、屈服してしまった。
結果として、彼を思いとどまらせることに失敗した。
恐怖を心身に刻み込まれた俺は、しばらくの間、カノンの存在に怯えて過ごしていた。
姿を見ただけで、あの夜の、これまで経験したことのない屈辱と恐れが俺を凍らせる。
「……? どうした、アイザック?」
たまたま側にいたソレントの服を無意識に握り締めていた。
冷たい汗が噴出して、震えを止めることができない。
「具合でも悪いのか?」
問いに答えられず、頭を横に振る。
同じようにしてカノンと目が合う度に俺はそこにいる誰かに救いを求めた。
「あ、あの……? クラーケン……様?」
無意識に、あるいは反射的に行動してしまうので、相手は将軍とは限らず、ときには位を持たない海闘士の腕にくっついてしまうことすらあった。
カノンが俺に宣言したとおり、完全に心を折られていた。
次の手を考えなくてはならないのに、思考さえも固まってしまっている。
「ザック」
「……はい」
あるとき、カーサに呼び止められた。
「お前…………」
「は、い」
「いやぁ、やっぱいいわ」
がしがしと頭を掻いて、立ち去ろうとしたカーサは数歩歩いてまたすぐに戻ってきた。
「……つーか……あれだ。シードラゴンには近づかないこったな。奴ァ、ヤベーよ」
人差し指を俺の鼻先に突きつけてくる。
「お前は命の恩人なんて義理を感じてるかもしんねーけど。そんなん構いやしねーから、とにかく不用意に近寄んな。あいつァ、お前を助けたんじゃない。自分の手足となるヤツを減らしたくなかっただけサ」
……鋭い。
まさかカノンの野望を知っているってわけじゃないだろうが……近いところまで目星をつけているのかもしれない。
「……少し……釘刺すのが遅かったみたいだが……」
元から小柄な彼は猫背でさらに俺より低くなっている目線から俺を、俺の眼の奥を、覗き込んできた。
(……いやだ……)
咄嗟に目をそらし、胸元の服を握り締め、精神的な防御体勢を敷く。
カノンの次にこの人の眼が苦手だ。
まるで何もかも知っているみたいな……
眼を見られたからって、心を見透かされるなんてこと……ないと思うけど。
あの夜のことが知れたら、なんてありもしない想像でうろたえた。
「とにかくこれ以上、あの怪物に踏み込むんじゃないぞ」
「怪物……」
「そうさ、アイツァ、怪物よ。……その怯えようからして、もう十分に承知したようだがな。ここにゃ、アイツ以外にお前に危害を加えようってヤツはいねぇ。どうせ懐くんなら、他の海将軍にしとけ。イオなんかは手ぐすね引いて待ってるぞ。すぐ下のソレントが自分より偉そうなモンだから、もっと素直で可愛い弟分が欲しいんだろ。……あ。俺はパスな、そういうの、ガラじゃないから」
爪の長い魔女みたいな手をヒラヒラ振って、カーサは今度こそ本当に離れて行った。
……アイツ以外にここでは、この海界では俺に害を加えるものはいない……
カーサが立ち去った後で彼の言葉を頭の中で反芻する。
(その通りだ)
海界の人たちは優しくしてくれる。
俺を仲間だと思っているからだけど。
地上で、本当は欲しかったけど失望されるのが怖くて、そのせいで見放されるのではないかという焦燥感でいっぱいで……口に出来なかった願望が、ここでは黙っていても与えられる。
ここでは、「しっかりしなさい」と言われない。
ここでは、「我慢できるだろう」と言われない。
ここでは、「誰某を守ってあげなさい」と言われない。
ここでは、「お兄ちゃんでしょ」とも「兄弟子なのだから」とも言われない。
ここでは、「お前は不要だ」と…………言われない。
ここでは、ただ突っ立っているだけで気にかけてもらえる。
ここには、子供のときに憧れていたものがそろっている。
庇護されているという確かな感覚が、俺を堕落させてゆく。
ここにいたい。
ここにいたくない。
……爪を噛む。
本当は、解らないフリをしていただけ。
もはや地上に俺の帰るべき場所などない。
遠い昔、母が言った。
しっかりしなさい。我慢できるわね。守ってあげなさい。
お兄ちゃんでしょ。解ってあげなさい。
もう大きいのだから、独りでも大丈夫ね。
お前は強い子だもの。独りで何でもできるわ。
お返事は? 「はい」でしょ? お前は「はい」と言っていればいいの。
幼い弟が選ばれるって、予感はあった。
だから少しでも気に入られたくて、何でも母の言うことに従った。
けれどどんなに努力しても、努力しなくても。
選ばれる者は初めから決まっている。
お出かけしよう、とこれまでに向けられたことのなかった優しい笑顔に不安を覚えた。
きっとどこか遠くに、独りでは帰って来れないほど遠くに置き去りにされるのだとなんとなく、感じていた。
ちょっとそこのベンチで待っててね。母はそう言い残し、弟の手を引いて姿を消した。
いくら待っても、迎えにきてくれることはなかった。
数ヶ月前。カミュが言った。
聖域から来た使者に、キグナスは氷河に、と。
訓練中に氷河が派手にケガをしてしまい、あわてた俺が救急箱を取りに戻ったとき、その会話を聞いてしまった。
自分の方が優れているのに、何故? 悔しくて悲しくて苦しくてたまらなかった。
むろん、それを口にすることはなかったけれど。
氷河が潮流に飲み込まれたとき、アイツだけでもと助けようとしたのは、血は繋がっていなくとも一緒に育った兄弟であり、友人であったから。それは間違いないが、どこかで、氷河は必要で俺は不要だという思いがあったからだ。
氷河は師に、女神に、運命の星に、選ばれた聖闘士となるべき存在。
ならば、ここで死なすわけにはいかない。
日々、師にも言われていた。
もしものときは弟弟子を頼むぞと。
……いつも。
俺が選ばれることはない。
どんなに努力しようが、しまいが。
(……此処にいたい……)
でも、帰りたい。
擬似家族であるカミュと氷河に会いたい。
だけど自分には“役目”がない。
聖闘士になれないのであれば、聖闘士候補生ではいられない。
そうしたら、カミュの側にいられる理由がなくなってしまう。
帰っても、居場所がない。
そうしたら、今度はどこへ行けばいいのだろう?